北越戊辰戦争紀行 其の壱 小千谷〜長岡〜福島県只見町 (河井継之助の足跡を辿って) 平成18年6月10日〜11日 |
1 慈眼寺 |
ご存知、河井岩村会談の場。当初、小千谷の西軍(官軍)本陣にて会談が行われる予定であったが、急却、ここ慈眼寺が会談の場と決まる。 その背景には、長岡藩を東軍(奥羽越列藩)に引きずり込みたい会津藩の思惑 (会談前にわざと長岡藩境に於いて、西軍に激しい攻撃を仕掛け、そこに長岡藩旗を置き、長岡藩の印象を悪くしたなど)があった。 境内には昭和11年建立、徳富蘇峰選文による「岩村軍監、河井総督会見所記念之碑」が建つ。 後世の歴史研究家は、当時の岩村精一郎の河井継之助に対する高圧的な態度が、談判決裂の主たる原因とされるが、河井の従者及び他藩士の証言などから、河井の相手を強制的に納得させる慇懃無礼な弁舌、物腰しが、岩村にして席を立たせた理由とも察せられる。またそれは、藩論を統一したい河井の演技でもあったのか? 河井は決裂後、何度もこの門前で再度の取次ぎを頼み入るが実現せず。 |
2 料亭「東忠」 |
慈眼寺での談判が決裂したのち、河井は、ここ東忠で休息。同行していた二見虎三郎(会津で戦死、河井と同じ栄涼寺に墓あり)に再度の会談のため薩長以外の他藩にも奔走させ吉報を待つ。 その時、河井はここの二階で酒を飲みながら放歌した(「峠」より)というが忠実か否かは定かでない。 河井が休息した二階の部屋は、当時の姿で残されているという。 |
3 船岡山 |
現在は桜の名所、船岡山公園。 山頂東側に小千谷、長岡方面で戦死した西軍戦没者の墓地がある。東から長州、松代、薩摩の順で並んでいる。 墓は藩ごとに型を異にしている。中でも山県有朋筆の時山直八の墓が、一際目を引く。時山の首と対面した山県は、「何で待っていてくれなかったんだ」と朝日山に先攻し、戦死した親友を嘆き悲しんだという。 傍らの広場には、大山巌揮毫の鎮魂碑がある。 |
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4 前島神社 |
慈眼寺での談判決裂後、河井は幼馴染であり政敵でもある川島億次郎(三島億二郎)を前島村の河川土手に訪ねる。 ここで、決裂への過程を説明し、なおも開戦不可を論ずる川島にたった一つの開戦回避説(河井の首と一緒に前々から薩長から命令されていた軍資金3万両の提出)を述べる。 それを聞き「止む無し」と川島は河井と運命を共にする決意を固める。 河井は人望者の川島を自分側に引き込み、非戦派を一掃し、一藩をあげて戦争突入、ともっていきたかったのかもしれない? 川島は、その時、平隊士から軍事掛り兼、奉行に抜擢される。 戦後、川島は生き残り、長岡藩大参事となり、長岡藩首相となる。が、薩長に遠慮してか、あるいは戦争に賛成した事を悔いてか、遺された河井の母、妻の世話はしていない。(のちに間接的に援助) |
5 長岡藩本陣跡(摂田屋・光福寺) |
三国峠を北上してくるに西軍に対し、少しでも前線に近くあるようにと長岡城下南4kmの地点に置く。 尚、この地は天然の要害など無い。 河井は川島などの幹部を伴って諸隊長をここに集結させ、得意の演説をし、各々隊長の自らの戦意を高めようとした。 結果、河井の主張どおり戦争が決定し、戊辰の役一と言われる凄惨極まりない北越戦争の幕が切って落とされた。 最初、長岡藩はここに本営を置き、長岡城落城後、それは栃尾、そして加茂(長岡市から北へおよそ30km)へと移る。 |
6 榎峠古戦場パーク |
今日の整備された車の交通網からすれば考えられないが、「大川」と言われた信濃川と山々に挟まれた長岡にとっては、藩境南の要所。 河井は、開戦前、西軍に恭順の意をつくすため、この要地に陣を張っていた兵を撤退させる。 そして開戦とともに この峠の奪還を会津、米沢、水戸(天狗党に敵対し故郷を追われた諸生党)衝鉾隊(幕府脱走陸軍歩兵部隊・龍馬を斬ったとされる今井信朗が副隊長)などと決行。 双方戦うにつれ、榎峠を奪うには、より高地の朝日山を獲る事が先決と気付く。 そして舞台は、朝日山へと移行。 尚、この榎峠の崖下は、一昨年10月23日の新潟中越地震で助けられた幼児救出の地。 |
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7 朝日山古戦場跡 |
小千谷談判不成功の責任をとらされてか、この時期は柏崎方面から急行した山県有朋が岩村にかわり全権を掌握。 親友であり同じ松陰門下の時山直八と、この朝日山争奪戦は、「維新の関ヶ原」になる、と話し合う。 維新の魁は歴戦の雄、奇兵隊のみで行いたい時山に対し、慎重論の山県は在場の全兵力で行うべきと主張。 先に朝日山を制した東軍に対し、西軍は5月13日早朝に総攻撃を予定する。 当日早朝、霧の発生を機とし、時山は山県の援軍を待たず出立する。現地で徴発した農民に守備の手薄な北面へ案内させたつもりが、守りの固い南西面へ誤って誘導させられてしまう。 それに桑名藩軍略家、立見鑑三郎の陽動作戦も功を奏し西軍は敗退、時山も戦死。以後膠着状態をむかえる。 山頂にはその地において戦死した両軍の墓碑、河井が現地の農民を徴発したり囚人に掘らせた塹壕などが今も残る。 当時この激戦地の「朝日山」の名は日本中に知れ渡る。膠着状態を打破しようと山県は上司である大村益次郎に援軍を催促するが、会津方面の戦いが終われば北越も終わると考える大村は、その要求を却下する。 |
8 司馬遼太郎「峠」の文学碑 |
小千谷市の信濃川に架かる「越の大橋」の小千谷側に位置する。小さい碑ので、見落としがち。 小説「峠」の峠の意味は、榎峠あるいは森立峠、はたまた、戊辰戦争の雌雄を決定する意味での峠、を言うのであろうか? |
9 同心町・河井継之助生誕の地(現・表町、本町) |
河井継之助秋義は、1827年正月元旦、長岡城下の同心町に生まれた。 河井家は代々当主を代右衛門、嫡男は継之助、と名乗ったが、継之助はその名前が藩の内外に広まっていたこともあり、改名せずに「継之助」で通した。 1844年、この同心町の河井邸は火事により焼失したことから、たまたま空きのあった長町(現、河井継之助邸跡)へと河井家は屋敷を移す。 同心町は、その名のとおり同心(足軽身分)が居住していた区画であるが、時代の流れとともにさまざまな原則は、緩和されていたようである。 |
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10 河井継之助邸跡(長町) |
同心町から移った河井家はここに住居を構えた。(約650坪の敷地面積) 河井の家族は一度目の落城後、濁沢に潜伏していたが、西軍(岩村精一郎の部隊)に捕らえられ、囚人用の藤丸籠に乗せられ、高田に護送された。 翌、明治2年、河井の両親と妻「すが」は釈放され、この地に家を再建。のちに、すがは北海道に移住したが、その家は昭和40年頃までこの地にあった。取り壊されてから現在の所有者(個人)の建物が建築される。 河井の号(蒼龍窟)の由来となった2本の大松のうち1本は昭和60年4月までは健在だったが、市が雪害対策をしなかったため?か折れてしまう。しかし、庭石、手水鉢は河井時代からのものである。 |
11 崇徳館(現、かも川本館辺り) |
1808年開校の長岡藩の藩校(長岡高校の実質的前身)。 幕末に至り、人材教育に熱心だった河井は英才教育のためここに造士寮をつくった。寮長は長岡の逸材といわれた酒井貞蔵(晦堂)を抜擢した。 しかし、元来非戦論者であった晦堂は河井の斬奸状までも準備し暗殺を企てる。 だが、開戦と藩是が決まってからは、得意の馬術を生かし本陣付き伝令を務め藩のため奮闘する。 十日町村にて戦死。今、彼の墓は山本帯刀、五十六らが眠る長興寺に移されている。 ちなみにこの崇徳館の教授らは、知識人(エリート)のためか勤皇派が多く、開戦となってからは薩長に亡命するものが少なからずいた。 長岡に残った教授らにも河井は、「寝返り」を懸念してか、長岡城下、城内の警備など西軍と接触させない軽徴な任務を与えている。 尚、崇徳館跡地の「かも川本館」は河井が好んで食べた「桜飯」を当時を再現して客に出しているが料亭なので高価。 |
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12 草生津の渡し跡(現・長生橋) |
5月19日未明、長州藩の決死隊約100名は、信濃川西岸のこの付近から強行渡河し、中島の水道タンク辺りに流れ着き上陸を果たした。 現在、信濃川に架かる長生橋の西岸たもと(大島町・旧本大島村)には、昔この地に渡しがあった、という説明板と碑があるが、戊辰の役の西軍渡河については何ら触れられていない。 |
13 中島上陸地(西軍上陸の地)跡 |
ここには「明治戊辰戦蹟顕彰碑」をはじめ、長岡藩兵の墓などが残されている。 これらは西軍が上陸した信濃川河畔に当初あったが、河川の改修工事のため現在地に移転された。実際は、ここから約200m離れた信濃川の水道タンク前辺りと推定される。 長州藩奇兵隊参謀の三好軍太郎は、関原(西軍本営)に赴いて山県有朋と信濃川渡河について協議。5月19日早朝、決死隊約100名が信濃川西岸の本大島村から幸運にも東軍保塁の無い中島の地に漂着。(東軍は上陸があるとすれば手薄な前島付近と予想していた)その少しあと、蔵王方面の薩摩部隊も長州に負けじと上陸を開始し、一気に長岡城へとなだれこんだ。 長岡軍は、渡里町(寺町)の柿川の堤や中島兵学所の建物に籠って抵抗を続けるが、強兵を榎峠、朝日山に出してあり、城下の守備兵は老人、子供ばかりで筒単に突破されてしまった。 くしくも5月19日夜、河井は西軍の小千谷本営と本大島の陣地を全軍で衝く作戦をたてていた。 半日の「づれ」が勝負を分けた。 |
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