北越戊辰戦争紀行 其の弐 |
14 西福寺(維新の暁鐘) |
5月19日早朝の敵の来襲を町の人に知らせるため一兵士が、乱打したことで有名な鐘が残る西福寺は、渡里町の中の「寺町」といわれる、寺院が多い町の中の一角にある。 この寺町の西側には、柿川(内川)と呼ばれる小さな川が流れ、もし西側から敵がきて 信濃川を突破してきたとき長岡藩は、この柿川の内側に配置した寺院を砦とし、柿川を城にたとえて「堀」とし長岡城を防御しようとした。 しかし、5月19日、長州軍来襲のときは、いとも簡単に突き破られた。 |
15 中島兵学所跡(現、表町小学校南東周辺) |
河井は藩政の実権を握るや富国強兵を強力に推進し、その一環として、ここにフランス式の教練を課した。 特に銃撃には最も意を用い、上士も下士も差を設けず新兵制と新装備とになじませた。 摂田屋光福寺での戦争決定を受け、河井はここに全藩士を集め、藩主の前で開戦の決意を演説する。 5月19日、西軍による最初の長岡城陥落の時、ここは幼い少年兵150名が守っていたが支えきれず、兵舎に火を放ち城内方面へ撤退する。 |
16 伊東道右衛門の碑 |
長岡城陥落の5月19日、蔵王堂城で砲兵隊の指揮をとっていた彼は、長岡軍劣勢の中、一人踏み止まり信濃川を渡ってきた薩摩兵に射撃される。 その時のいでたちは祖先の遺物、歴代藩主より賜った甲冑、刀槍であったという。 銃殺した薩摩兵もこの気魄に感動し記録にとどめている。 尚、河川改修工事により川筋が変化し、厳密にはこの石碑の位置は彼の戦死の地ではない。 |
17 蔵王堂城跡 |
蔵王堂城は元長岡城と言うべき城郭であり長岡城が築かれるまで堀氏8万石の居城であった。蔵王堂城は西を流れる信濃川を天然の障壁としていたが、その反面増水の度に被害を受けていたことから城主の堀直寄は長岡城への移転を決意する。移転に伴い建築物は取り払われたが土塁や豪などは残された。 北越戦争時、長岡兵はこの古城を防御拠点として再利用している。 長州軍による信濃川渡河作戦が敢行されると蔵王堂城西岸の薩摩兵もぞくぞくとここに上陸し、長岡城は陥された。 現在、当時の砲台を築いたとされる土塁、豪、砲弾が当たり幹が割れた大きなけやき、それと長岡の街の基礎を造ったとされる堀直寄の銅像が建つ。 戦いぶりが語り種となった伊東道右衛門は、当時この蔵王堂城内の安禅寺で砲兵の指揮を取っていた。 蔵王堂城の前(南)は、昔の丹波街道。信濃川へのつきあたりは、「蔵王の渡し」、があったはずだがそれを記すものは現在なにもない。 |
18 長岡城大手門跡 と 19 神田橋門跡 |
長岡駅西口の目抜き通りとも言うべき「大手通り」の第四銀行前辺りが旧大手門のあった所とされ、ここで河井は、信濃川を渡河してきた長州軍を相手にガトリング砲を打ち放っている。(衝鉾隊士日記より) 河井邸跡のすぐ西に位置したとされる神田橋門(現、原歯科医院前)は、今も道路がカギ形になっていて当時の防備機能の名残である。 河井はこの門から登城した。 |
■ ■ ■ |
20 本妙寺 |
信濃川東岸に於ける東軍の最前線基地。 5月19日、西軍来襲の時、本殿は延焼した。 |
21 正覚寺 |
城下の正覚寺に宿陣している村松藩のところへ東軍幹部が訪問して軍議が開かれた。 河井が同盟のよしみで出兵を依頼したところ、村松藩側は市中巡邏はするが前線への派遣は固辞した。 これが長岡軍らにとって「信頼できない村松藩」とのイメージをつくり、のちの西軍信濃川渡河の際、村松兵が誤って味方に発砲してしまった時、「村松藩の寝返り」と誤解を産み、長岡城陥落の一番の要因とされた。 落城後、村松藩家老はその責を負って切腹している。 その後、村松藩士はこの誤解を解くため常に東軍の最前線で戦ったようである。 この正覚寺と西福寺(維新の暁鐘として有名)は本願寺派に属し、勤皇派とみられ、北越戦争の時は東軍から常に疑いの目で見られていたという。 |
22 石内 |
長岡藩には、北廓(主に武士が利用)、南廓(主に町人が利用)と2つの遊廓があり、その北廓がかつてあった場所。 町の中心には「極楽寺」があり、ここには戦争に反対し西軍に亡命した崇徳館の教授たち十数名が西軍により軟禁されていた。西軍でも彼らのことが信用できず、積極的に仲間に繰り入れることを避けていたようである。 八丁沖渡河後、長岡軍はこの十数名殺りくのため、ここに急行したが危険を察知してか彼らは既に居なかった。 ご住職に当時の話を尋ねたが、教授らが軟禁されていた建物や痕跡、廓の具体的な場所などは確認できなかった。 この極楽寺の近くには、付近の戦闘で死んだ長野松代藩14名を合祀した墓が道端に建っている。 |
23 長岡城跡(現、JR長岡駅周辺) |
豊臣系の堀直寄により築かれ、途中、徳川の譜代である三河の国人、牧野氏により完成。牧野氏入城の1618年から戊辰戦争までの250年間移封なし。石高7万4千石(実質は14万石ともいう)。 長岡という地名は本丸の周辺が細長く、小高い丘陵(高さ6mぐらい)だったことに由来する。この徴高地のため昭和10年の信濃川氾濫の時、市街は浸水被害を受けたが、駅周辺は被害が軽かった。しかし今では、それも実感できない。 長岡は北越戦争における2度の落城、および長岡大空襲により徹底的に破壊され、また鉄道の開通、油田の発掘などにより、城郭のライン、町割り、道筋など当時の面影は現在全く偲べない。江戸時代に存在した城郭ある街の中で消滅の度合いが一番の地といえる。 本丸の北西に長岡城のシンボルといえる「御三階」とよばれた三階やぐらがあった。(高さ約14m建坪30坪) 1回目の長岡城陥落の時、河井は部下に命じ、これに火を放つ。命ぜられた部下たちは悲しさのあまり自らも爆死したという。戦後しばらくして、このやぐらが建っていた徴高地に河井と山本帯刀の顕彰碑が建てられた。それも北越鉄道開通とともに悠久山に移された。 |
24 森立峠(見返り地蔵・御殿場跡石碑) |
森立峠は長岡から栃尾に抜ける要路でここからの眺望は中越一帯を眼下に収めることが出来る。 5月19日、長岡城を失った河井たちも悠久山からこの峠を経て栃尾に落ちた。 峠を通行する人々が、旅の安全を祈った地蔵が今も建つ。 そこから南に500m進むと殿様が収穫の豊凶を判断するため足を留めた場所という(御殿があったという意味ではない)御殿場跡石碑が建つ。その碑文には、この地に於いて河井が長岡城奪還の意思を将兵に宣言したことが刻まれている。 この峠で、河井は長岡から逃げ落ちてきた山本帯刀の母から、西軍に城を獲られたぶざまな有様を叱咤され、謝ったといわれている。 |
25 栃尾 |
栃尾は上杉謙信(当時、長尾景虎)が、少年時代をすごし、後の飛躍の基礎を形成した地として有名。 したがって謙信の銅像や町のあちこちに「謙信ゆかりの何某」などの看板やのぼりが目立つ。 町の西側にある栃尾城跡は、別名舞鶴城とも言われ、現在その山は鶴城山と呼ばれている。 7月25日、東軍の長岡城奪還作戦の時は、攻撃開始を各地に伝えるためこの山の本丸跡近くの狼煙台から狼煙を上げたとされる。 北越戦争に勝てなくても負けないために、戦争の長期化をはかりたい河井らにとって、冬季山岳ゲリラ戦を展開する基地として絶対に欠かせない山間に開けた栃尾の町は、東軍には死守すべき生命線といえた。 そのため、この周辺で栃尾をめぐる争奪戦が繰り拡げられた。 今、栃尾といえばジャンボ油揚げが有名で、味もなかなかと評判である。 河井が本陣とした「伊勢屋」という宿?を探すため、数人の町の古老に聞き込み調査を試みたが、残念ながらわからなかった。 |
26 加茂本営(市川邸・大昌寺) |
長岡城陥落により、東軍(長岡軍)は森立峠を越え栃尾に入り、さらに葎谷まで退却する。 5月21日、河井は、さらに北の加茂の町の大庄屋、市川邸に本陣を構える。その市川邸跡は、現在北越銀行加茂支店となり、敷地内に「明治天皇加茂行在所跡」と「市川家顕彰碑」が建ち河井の名も刻まれている。 加茂の名は、京都賀茂神社の神領だったことに由来し、加茂川沿いに開けた加茂の町は、越後平野と山間地との境目にあたり、戦略的要地といえた。 この地で河井は体勢を立て直し、杉沢方面(赤坂峠)、今町、そして八丁沖へと南下し、長岡城を奪還するのである。 大昌寺は米沢藩の本陣が置かれた所。裏手の墓地には、東軍の墓が残される。 戦国乱世の時、米沢上杉家は越後一国の主だったが、近代兵器もなく実践経験もなく、また日和見的な藩論を持つ米沢藩に河井は期待していなかったようである。 大昌寺に隣接する郷土資料館には拾い集められた弾丸が展示され、こんな辺境の地でも戦闘があったことがうかがえる。 |
27 赤坂峠(杉沢村周辺) |
5月26日から6月1日にかけ、加茂の本営を出立した東軍は、杉沢方面に展開する西軍右翼部隊に攻撃をしかける。 だが地形を有効に活用して頑強に抵抗した西軍に東軍は撤退をよぎなくされる。 その結果、河井はこの方面を突き崩すことを断念。大胆にも中央突破(西軍前線基地のある今町を攻略)作戦に全力を傾ける。 赤坂峠は西軍、東軍が入り乱れて激戦を繰り拡げた地であり、昭和初年に「赤坂峠古戦場の碑」が建てられている。 |
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28 今町(坂井神明社・源助坂・永閑寺) |
今町は西軍による長岡城陥落後の西軍の防衛ラインの中核にあり交通の要衝でもあった。 河井はこの今町を攻略することにより戦局の挽回を策す。 東軍は加茂の本陣を出発後、鬼木に到着。そこから山本帯刀(河井死亡後の長岡藩軍事総監。西軍の降伏の呼びかけに応ぜず斬首さる。山本五十六の義父)率いる左翼隊が分離する。この左翼隊は今町へ約2kmのところにある「坂井神明社」から主力部隊と見せかけ砲撃する。本隊を率いる河井隊は刈谷田川に沿って南進。さらに三林で右翼隊を分離。5月29日午後2時頃、三隊が合流し最大の激戦地となった「源助坂」(現、石川外科病院付近、坂といっても5mぐらいしか標高差なし)付近にて西軍と死闘をくりひろげる。 夕刻になり右翼隊が敵の背後に回ったことから退路を断れることを恐れた西軍は今町から撤退、見附方面に敗走、奇兵隊参謀の三好軍太郎もこの時負傷する。後年、関東軍総帥となった石原完爾は、河井のこの戦術を高く評価している。 「永閑寺」は今町の町作りの中心地。当初、西軍の本陣が置かれたが、東軍攻略後は東軍の本陣となる。 尚、今町攻略後、河井は見せしめのためか西軍に味方した農民たちをこの近辺で処刑している。 |
29 大黒古戦場パーク |
八町沖西側に位置する激戦地。 すぐ脇の大国主神社境内とともに西軍の臨時の陣屋跡。 当時の土塁跡などが残る。20年くらい前までは田んぼを耕すとよく銃弾が出てきたそうな。 |
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