北越戊辰戦争紀行 其の参 |
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30 西照寺 |
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大黒古戦場パークの北東約750mの地にある、東軍(主に米沢藩)の本陣跡。 ここの本殿裏手の竹やぶ及び付近の桜井邸の畑の中に台場跡の小さな碑が建つ。 桜井邸の台場は、その昔1.5mくらいの高さまで土塁が築かれていたようだが今はもう無い。 西照寺には長岡藩の陣笠、砲弾、砲弾を入れる木箱が残されている。特に当時の弾痕が無数に残る木戸が残されており必見。これは最近まで大阪の博物館に貸し出していたという 。 ほんの750mしか離れていない大黒村から発射され、その砲弾が当りカンカン鳴ったという釣鐘は、戦時中に供出されて今は無し。 当時この辺りの部落は長岡軍に放火され、2、3軒が免れただけで、あとの家々は全焼、西照寺も入口の大木を残し全て焼かれた。 河井は村々に入るとまず寺を燃やし、火の手の大なるを狼煙として利用したという(ご住職の話より) |
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31 八丁沖古戦場パーク と 32 日光社 |
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長岡城奪還作戦のクライマックス。 加茂の本陣から南下し、今町を攻略した東軍は、長岡城陥落による精神的な痛手から多小なりとも立ち直る。 しかし東軍優勢を日本全土に知らしめたい彼らは知名度の高い長岡城の奪還を最大の目標に掲げる。 当時、東西南北約4kmの沼だった八町沖の真ん中を渡河する作戦を長屋に住む下級武士の鬼頭熊次郎誘導のもとに決行。しかし彼は敵に見つからないよう発砲を禁じた命令を律儀に守り、上陸直後に戦死。享年42歳。 彼は部屋住みの生涯独身で、甥っ子(のち日本石油の専務になる)の学費を援助するなど清貧の家庭を支えてきた。 重労働者のためか猫背でガニ股だったという。戦死者の中から家族が彼を見つけ出した決め手は変形した足の形、であった。そんな彼を長岡藩は戊辰の翌年、論功行賞で藩第一の功労者に選んだ。 今、彼の顕彰碑が上陸地近くの「日光社」に建つ。 旧長岡藩士にとって、この渡河作戦は生涯一キツイ出来事だったと記憶している人が多い。それと同時に彼らにとっては、この長岡城奪還成功が心の支えとなって差別された明治時代を力強く生き残れたようでもある。 |
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33 関原・西軍本営跡 |
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長岡の街を一望でき、小千谷、柏崎、与板との交通の要にあり長岡から約8kmの高台にあるこの「関原」の地に西軍は長岡を占領してからも本営を置いた。 7月25日、東軍の長岡城奪還が成功し、寝衣のまま関原に退いた西園寺公望は山県有朋、前原一誠と今後の方針を協議した。 この時、河井は重傷に倒れ、追撃の機を逸したが、もし当初の予定どおりこの関原を衝いていれば西軍は混乱を極め、局面は違ったものになっていたのかもしれない。 |
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34 西園寺公望寄宿の地(商家・絹五跡) |
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神田町の旧三国街道沿い、大きな時計店の前に碑が建つ。この碑は、時計店が自腹で建てたらしい? 7月25日長岡城を奪還された時、西園寺は関原に、山県は妙見(榎峠、朝日山方面)に逃げ落ちている。 この商家付近には山県ら奇兵隊が本陣としていた薬問屋「小村屋」もあった。 現在も子孫のかたが、この場所に住んでおられ、山県たちが泊まっていたのは裏の離れだったとの話をうかがえた。 西園寺公望は公家に似合わず豪胆で、まわりからの注進にもかかわらず、このような危険な地に宿舎を構えていた。こんな武骨な性格を持つ彼を大村益次郎などは可愛がっていたらしい。 |
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35 河井継之助遭難の地(新町2丁目付近) |
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河井は長岡城奪還に成功したその日の昼頃、この地方危うし、との報告を受け自ら視察に訪れた時、左足に被弾した。雁木(アーケード)から雁木に飛び移る一瞬の間であったという。 この旧三国街道に面する車の往来が激しい新町2丁目近辺には、喰い違いもあったはずだがそれらを示す碑や案内板の類いは何も発見できなかった。 |
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36 昌福寺 |
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長岡城奪還に成功した7月25日、河井は激戦が展開されている新町(長岡駅から約1.5kmの城下町の北端)の旧三国街道沿いの雁木(雪国にあるアーケード)から雁木に駆け出た一瞬、左足に銃弾を受けた。 長岡城で手当てを受け翌26日、野戦病院として利用されていた昌福寺に収容された。客殿に運ばれたという。 境内には洋学者として長岡藩士から幕臣に取り立てられ蕃所調所教授となった鵜殿団次郎(海援隊士、白峰駿馬の実兄)の墓も建つ。 明治2年当初、小林虎三郎はこの本堂に国漢学校を開校。 翌年、三根山藩から送られた米百俵を売却し、現、大手通りにある大和デパートの場所に校舎を建設した。 |
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37 叶津番所 |
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新潟方面から難路の八十里峠を越えて会津側に入った河井一行は、ここ叶津番所で一泊( 休憩したのみ?)している。この叶津番所は八十里街道と六十里街道の辻に建つ。 内部は木造わらぶきの3階建で、娘隠しの部屋や、わずか2畳ほどの下郎の部屋などもある。武士の居場所となる上段の間の床の間には何故か坂本龍馬の掛軸が飾ってあった。奥さんに尋ねたところ姓が同じだから、とのこと。 予約すれば宿泊もできる。 |
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38 目明し清吉宅(現、五十嵐正一さん宅の納屋) |
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叶津番所で一泊した河井は、追っ手の捜索を避けてか、会津とは逆方向の上州側の目明し清吉宅に7泊(1泊の説あり)している。 ここで会津から来訪した松本良順に足の傷を診てもらうが、既に鉛の毒が全身にまわり手遅れの状態であった。 |
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39 河井継之助記念館(只見町塩沢村) |
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河井が没した村医、矢沢家の屋敷は昭和37年のダム建設のおり水没。現在地への移転に際し、河井が最期を迎えた間だけは移築された。ここには河井の使っていた毛布などゆかりの品々が展示されている。総工費の約4分の1は長岡市からの寄付。 矢沢家に居る間、通じもあり、梨が食べたいなど言い、回復に向かうと思われたが、昼寝をしたいとの言葉を最期に8月16日午後8時ごろ(午後2時とも?)永眠。享年42歳。 この記念館のすぐ隣は山塩資料館。旧河井継之助記念館だったこの建物は、新館の完成とともに、山塩資料館として現在利用されている。 河井記念館と山塩資料館の間は、昭和12年、地元の有志らによって建立された「河井継之助君終焉之地」の碑が建つ。(この碑は塩沢村水没とともに現在地に移転された) |
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40 医王寺(河井記念館すぐ裏手) |
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塩沢村はダムにより水没したが、寺は河井の時代からこの高台の地にあった。 現在、廃寺のようなこの寺は小千谷の慈眼寺と同じ真言宗智山派に属し、河井ゆかりの寺、ということでつながりが深いようである。 |
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41 栄涼寺 |
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河井は福島県只見町塩沢の医士矢沢宅で息を引き取ると、そこでダビにふされ細骨は従僕の松蔵によって、いったん会津若松の建福寺に埋葬された。 西軍が会津に突入し建福寺を占領し河井の墓をあばいたところ、棺からは石と砂が出てきただけであった。 松蔵は西軍に発見されるのを恐れ墓標をダミーとし、遺骨を山中の松の下に埋めておいた。そして、戦火が収まってから、ひそかに掘り出し故郷の栄涼寺へ葬った。 栄涼寺の河井の墓は、彼を恨む人々によって何度となく倒されて、ムチ打つ人もいたそうである。 栄涼寺は戊辰戦争時は西軍の野戦病院としても利用された。 ここの本堂は河井の命令によって当時焼かれ、再建である。 余談 従僕松蔵について。 駕籠かきをしていた松蔵は、背が高く美男であった。 ある日、藩主牧野忠恭婦人の「つね姫」に誘惑され同衾してしまう。そして婦人は懐胎し、松蔵は処罪されることとなった。 これらの処置を秘密裏に、また穏便に取り行ったのが河井であった。 生まれた子は、上州桐生へ預けられ、松蔵は河井に恩を感じ 終生彼に尽くすことになる。 |
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42 米百俵の碑 と 43 米百俵の群像 |
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小林虎三郎は1828年生まれ、河井よりひとつ年下である。 幼い頃、疱瘡のため片眼を失う。生来の病弱を自嘲し「病翁」を号とした。佐々間象山の門下として吉田松陰(寅二郎)とともに、「二虎」と称される。 小林と河井は同じ頃に生まれ、藩士としての家格もほぼ同じ。幼い頃から知り合い互いに切磋琢磨して友情を培いながら成長する。が分別さかりになると政治姿勢は全く相対する。小林の活躍の場は北越戦争後であった。 長岡藩の惨状をみかね、支藩の三根山から米百俵が送られてきた。これを現金に換え、教育こそ長岡復興の近道と子弟教育の国漢学校を興す。(このもらった米は、本当は要らないもので、特に小林の提案により教育資金にしたという説あり) この学校の教え方は当時としてはユニークで、今のゼミ方式を取り入れたり、教える人も旧来の藩校の教授ではなく、江戸遊学など新しい知識を身につけた若者を採用した。 また藩士のみならず平民にも入学を許可している。 ちなみに小林虎三郎は日本で最初の日本語で書かれた日本史の教科書を出版している。(水戸黄門の日本外史は漢文) |
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44 山本五十六生家跡 と 45 山本五十六記念館 |
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昭和33年に復元されたこの生家は玄関が北向きだが、実際の生家は南向きで、もう少し奥にあり、通りと玄関の間に別の家が2軒ほど建っていて、通りから玄関を見通すことはできなかった。五十六の勉強部屋も復元されている。 高野家(120石)の末っ子として生まれた五十六は32歳の時、断絶されていた旧家老山本家(1,200石)を継いだ。 河井を尊敬する山本は、昭和9年のロンドン軍縮会議への参加を前にして「河井先生が小千谷談判に行かれて、談笑の間に戦いを回避しようとした精神で今回の交渉を成功させる」と知人に語っている。長岡軍をはじめとする東軍が西軍に勝てないことを河井は知っており、敵に大打撃を与えた上で、再び交渉のテーブルにつくという河井の真意を推量していたかのように、山本は勝てる見込みのない対米戦を指揮していく。 彼の墓は山本帯刀と同じく長興寺にある。 |
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46 如是蔵博物館 |
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二階には山本五十六関連の展示物、三階は河井、小林虎三郎、山本帯刀、三島億二郎、牧野親子、山県有朋、西園寺公望などの書が展示されている(全て本物) | ||
参考文献(パクった本) |
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歴史現場からわかる河井継之助の真実 河井継之助 長岡城燃ゆ 長岡城奪還 河井継之助のすべて 会津戊辰戦争写真集 長岡城を歩く 峠 シリーズ藩物語 長岡藩 |
東洋経済新報社 恒文社 恒文社 恒文社 新人物往来社 新人物往来社 新潟日報事業社 司馬遼太郎 現代書館 |
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