「風林火山」+α 甲斐、信濃をめぐる旅 其の壱 平成19年5月 |
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1 柏尾古戦場跡(甲陽鎮撫隊激戦の地) |
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新選組の近藤勇は、甲府城に立て篭り、ここで官軍を食い止める策をあみだす。 主戦論者の新選組を体よく江戸から追い払いたい勝海舟らは近藤の要求を受け入れ、歩兵200人、軍備、軍用金、さらに近藤、土方に大名身分をも与え、甲府に向かわせた。 物見遊山で行動する彼らはここ勝沼まで来た時、甲府城が既に官軍に奪われたことを知る。 東進してきた土佐、因州、高島藩ら官軍は彼らを3方から包囲し、鉄砲を浴びせ、甲陽鎮撫隊はあっけなく全軍敗走、八王子へ退き解散となった。 この戦いで、甲陽鎮撫隊は2名、官軍は1名の死者をだした。 尚、この地は大善寺の東門があった場所で、近藤は大善寺に戦火がおよぶことをおそれ、寺外で戦ったという。この大善寺には織田徳川軍の追及を逃れ武田勝頼一行が一泊したという薬師堂(国宝)がある。 |
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大善寺 |
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2 千葉佐那子の墓(清運寺) |
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佐那は龍馬より3つ(あるいは1つ)年下。明治29年59歳にて没。 維新後は学習院女子部の舎監を務めたり、千葉家に伝わる針灸術で生計を立てながら生涯独身で通す。 晩年、彼女と親交のあった山梨の自由民権家、小田切謙明とその妻が、縁者のなくなっていた彼女の龍馬への想いを汲んで「坂本龍馬室」と彫ったこの墓を建てた。 |
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3 魁塚(相楽総三処刑の地) |
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1868年3月3日の午後4時の頃、下諏訪の外れ「磔田」という刑場のこの地で、相楽総三以下8名の赤報隊員が斬首された。 西郷、岩倉らは偽りの軍議を招集し、本陣としていた亀屋旅館に彼らを誘き出し捕縛した。 その後、みぞれ降りしきる中、一昼夜、諏訪大社の並木の下に彼らは括りつけられ、食事や湯も与えられず哂され、その上での出来事であった。 相楽刑死との知らせを受けた妻、照は失意のうち短刀で喉を刺し夫のあとを追った。 相楽らの冤罪は孫の木村亀太郎の再三の申し出により薩摩の影響が薄らいできた大正に入りやっとの事で雪辱され、贈位も叶った。 毎年、相楽らの命日となった3月3日には、地元の有志たちにより「相楽祭」がこの地で催される。尚、ここ下諏訪は中山道と甲州街道が合流する地。それを記す碑が亀屋旅館の前に建っている。 |
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亀屋旅館 |
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相楽らが括りつけられていたと伝えられる並木 |
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4 和田嶺古戦場跡 |
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1864年、11月20日、幕命を受けた高島、松本両藩を中心とする軍勢2千と、武田耕雲斎、藤田小四郎らが率いる水戸浪士天狗党1300名が、この地にて激突、戦った。 午後2時頃から始まった戦闘は、相方一進一退を繰り返したが夕刻になり天狗党の遊撃隊100名が高島藩の裏に廻り、山の手から奇襲をかけたことにより連合軍は守備陣型が乱れ退却し、午後6時頃には勝負は決した。 この戦闘による天狗党の死傷者は17名、連合軍は26名と高島藩の記録には書かれている |
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5 上田城 |
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上田城は別名尼ヶ淵城とも呼ばれる。 当時は崖下を千曲川の分流が浸しており、そこを尼ヶ淵といったことに由来する。この地方の豪族小泉氏が建てた城(尼ヶ淵城)を修築、拡大して真田昌幸は「上田城」とした。 この城は武田信玄にならい守るより攻める城である。 1585年には1万、1600年には3万8千の徳川軍がこの上田城に襲いかかったが、昌幸は手勢2〜3千でいずれも撃破している。 関ヶ原の戦い後、上田城は徳川方に接収、やぐらは壊され、堀は埋められた。その後上田に移封となった仙石氏により城は再建されたが完全な復興はならなかった。 明治7年上田城は払い下げになり、ほとんどが民間に売られた。北と南のやぐらは接続され遊郭に売られていたが昭和17年、市民の力により買い戻され、復元された。 平成6年にはこの北と南のやぐらをつなぐ、やぐら門も復元された。 |
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大手門があった辺り
二の丸の堀跡。
昔、ここを市電が走っていた。 |
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6 真田石 |
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本丸の入口の石垣に組み込まれた大石は、昌幸が自ら太郎山(城の北にある)の石切場から選んで城の要石としたものといわれ、信之が松代へ移封となる時、父の形見として持っていこうとしたが、大勢の力をもってしてもビクともしなかったと伝えられる。 |
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7 真田神社 |
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上田城址に現存する三つのやぐらの真ん中に位置する真田神社。 本来は幕末に藩主だった松平氏の氏神で松平(しょうへい)神社と称していたが戦後上田神社と改名。さらに真田氏、仙石氏の歴代藩主も合祀され、真田人気のためか真田神社となった。 |
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8 真田井戸 |
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真田井戸は真田神社の南横にあり、非常に底が深い。 途中に横穴が掘ってあり、太郎山へ抜けられるようになっている、という。 昌幸が築城の折に抜け穴として考えた、とか猿飛佐助が利用した、などの伝説が残る。 |
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9 赤松小三郎遺髪の墓(月窓寺) |
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赤松小三郎は1831年、上田藩士芦田勘兵衛の二男として生まれる(龍馬より4つ上)。号は宇宙堂と称す。 18歳の時、江戸に出て佐久間象山について兵学、数学などをおさめ、イギリス人について英文、兵書をも学ぶ。 その後、勝海舟に師事し、航海、測量、蘭学を学び京都で英式兵学塾を開く。 秘かに討幕戦用の士官養成に取りかかっていた薩摩は彼に目をつけ、教官として招へいし藩士を育成させたが、教え子の一人、中村半次郎に幕府のスパイと疑われ京都四条通り辺りにて暗殺される。享年37歳。 遺骸は金戒光明寺に葬られ、その後遺髪は故郷上田に送られこの地に埋葬された。 |
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10 妻女山(さいじょざん) |
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永禄四年(1561年)8月、謙信は13,000の大軍を率いて春日山城を発し、ここ妻女山に布陣、海津城の信玄に対した。 十日間、にらみ合いは続き、九月九日の深夜ついに、信玄は行動を起こした。が、謙信はこの動きを事前に察知、勇士100名をここ妻女山に残し、全軍を八幡原へ突進させた。 ここ妻女山からは今でも信玄の拠城海津城が一望できる。来年の大河ドラマ人気を見込んでか、展望台を建設中。完成すれば、川中島から戸隠連峰、北アルプスまで見渡せるという。 山頂には招魂社、登り口には、謙信槍尻之泉の碑もある。 |
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