「風林火山」+α
甲斐、信濃をめぐる旅



其の弐


11 長国寺

旧松代藩主真田家の菩提寺。真田家の松代移封に伴い旧真田町の菩提寺(長谷寺)もここに移転となり、名を改めた。曹洞宗に属し信州総禄所として格式をほこる。
寺内には真田家代々の藩主の墓、二宮尊徳が慕う経世家恩田木工民親(もくもとちか)の墓、昌幸の父幸隆、兄信網、それに昌幸、幸村、大助父子の供養塔がある。
寺奥にある信之の霊屋(たまや)(重要文化財)は、日光東照宮の造営に携わった名工を招き建立したもので破風は左甚五郎、天井及び壁間絵は狩野幽筆作と伝えられる。
四代藩主、信弘の霊屋もあるがこちらは信之のものより簡素な造りで藩財政の困窮ぶりがうかがえる。

      
信之の墓                 幸村、大助父子の慰霊塔          
     
   
                                                             信之の霊屋


12 真田宝物館

1966年、松代真田家の真田幸治氏は同家に伝えられてきた大名家資料など5万点を松代町に寄贈。同氏の意向に添い1969年松代町はこの展示館を完成、開館させた。
古文書や武具、調度品、書画などを展示公開し真田の歴史を今に伝えている。


13 松代藩校(藩文武学校)

1852年、佐久間象山らの意見に基づき8代藩主幸貫(松平定信の二男)が計画し、9代幸教のとき(1855年)開校にこぎ着けた。
建物は高杉晋作も藩士と試合をしたという剣術所、漢文を学ぶ文学所、西洋軍学を学ぶ東序、漢方、西洋医学を学ぶ西序、その他、柔術所、弓術所、槍術所などから成り、創建当時の遺構を残す、全国でも珍しい藩校である。
教授科目には蘭学や、西洋砲術を取り入れ、松代藩が近代的な学校を目指していたことが分かる。
その成果は戊辰戦争(北越戦争)で発揮され、明治期の陸海軍に多くの人材を輩出したことに表れる。
この建物は明治4年、廃藩で閉校となってからは一時期松代小学校の校舎の一部として使用された。(国指定史跡)


   


14 松代城(海津城)

松代城は1560年頃、武田信玄が上杉謙信との戦いに備え、前衛基地として山本勘助に命じ築いた城で、当時は海津城といわれた。
築城当時は石垣の下(城の北側)を千曲川が流れる要害の地であった。
武田が亡んだ後、織田信長は家臣の森長可を城主とした。その信長亡きあとは上杉景勝が占領、第一次上田合戦の折りには真田幸村が人質としてここに送られた。
その後豊臣政権の時には田丸氏、徳川時代には森忠政、松平忠輝、酒井忠勝と城主はめまぐるしく変わり、1622年、真田信之が4万石の加増のもと松代に入城した。
額面からいえば栄転であったが、真田を嫌う二代将軍秀忠と当時の実力者、酒井忠勝が、信之の実力を削ぐための移封であった。(実質の石高は上田が18万石、松代が8万石だった)
近年、やぐら、門、石垣が復元、整備され、松代観光の目玉となった。春は桜の名所として賑わう。


   



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15 象山(ぞうざん)神社

幕末の先覚者、佐久間象山を祀った神社で、昭和13年に建立された。隣接して、象山誕生地、旧邸跡、高義亭、煙雨亭などがある。

      
象山記念館                    象山の墓                        
     


16 高義(こうぎ)亭

象山が蟄居していた聚遠楼跡から移築された建物。
高杉晋作、久坂玄瑞ら維新の英傑がここを訪れた。


    
                                               聚遠桜跡
       


17 旧大本営地下壕(象山地下壕)

太平洋戦争末期、軍部が本土決戦最後の拠点として極秘のうちに大本営、政府各省庁等を松代に移す計画の下に構築したもの。
9ヶ月間に当時の金で約2億円の巨費と延べ300万人といわれる周辺住民及び朝鮮人が強制的に動員され、1日3交替徹夜作業で工事は進められた。
食糧事情は悪く工法も旧式な人海戦術を強いられたため多くの犠牲を出した。
戦後は訪れる人も少なく「負の遺産」として忘れ去られていたが地元高校生の運動が起因となって総延長約6kmのうち500mが整備され、平成元年から一般に無料公開されることとなった。


18 山本勘助の墓

来年の大河ドラマ「風林火山」の主人公であり武田信玄の頭脳、知恵袋として名高い山本勘助晴幸は1542年、信玄の重臣板垣信方(板垣退助ゆかりの人)の推挙で武田の家臣になったという。
勘助は三河国出身で諸国を歴遊、情報通で、兵術、槍術、天文にも優れ、城取り、陣取り、城造りの名人であった。
川中島一番の激戦(4回目)の時、自ら考案した「キツツキ戦法」が謙信に見抜かれ、その責を負ってか無謀な突撃を敢行しこの付近の川堤にて戦死。


                           はちまんばら
19 川中島古戦場跡(八幡原史跡公園)

12年にわたり5度の対陣となった川中島の合戦。
特に有名な4回目の合戦(1561年)は武田軍2万、上杉軍1万3千がぶつかり合う、信玄41歳、謙信32歳の時であった。
妻女山に大挙して布陣する上杉軍に対し武田軍は当初「雨宮の渡し」に布陣、全軍を二手に分け、一隊が妻女山の裏手から夜襲し、一隊が八幡原に陣取って上杉軍の退路を断つという山本勘助の「キツツキ戦法」を採用した。しかし謙信は、武田軍の拠城海津城から炊事の煙が盛んに上るのを目にし、この戦法を察知。先回りして八幡原の武田本陣を急襲する作戦を実行した。
早朝、霧が晴れると同時に上杉軍は雨宮の渡しを越え、ここ八幡原に殺到、白兵戦が展開された。武田軍は慌てふためき信玄の弟信繁、山本勘助ら多くの重臣が戦死した。が、その時妻女山夜襲隊が急きょ山を降り、総崩れになりかけていた武田軍は陣容を建て直し、逆に上杉軍を圧倒し始めた。
謙信が信玄に太刀を浴びせ、信玄が軍配でこれを受け止めたなどという様々な伝説が生まれたのはこの時である。
午後3時頃には大勢は決し上杉軍はその日のうちに越後に引き上げて行った。結果的にこの戦いは信玄の勝利となり武田軍は北信濃まで制圧することとなった。

      

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