坂本龍馬、武市半平太に逢えそうな旅 其の壱 (高知市内、初級編) 平成17年10月15日〜16日 |
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はじめに(高知市の概略) |
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現在、人口約32万人の県都高知市の街は、山内一豊が新領主に任じられ高知城を築城し、城下町を建設したことに始まる。 城下町には、高知城を中心に武士の住む郭中と、その東西に町人街の上町と下町が設けられた。 高知の年間の平均気温は15〜16度。黒潮の影響を受け温暖である。しかし、降水量も多く年間降水量は2.645ミリと瀬戸内海側の約2倍。台風の季節には激しい雨が降る。 高知市の特色としてビジネスホテルと喫茶店が多いのが目に付く。 この2つは、市民一人当たりの棟数としては全国有数。 街中には、日本一歴史が古いといわれる路面電車が走る。このちんちん電車は市電でなく、地元土佐電鉄の私鉄。 また毎日曜日、1690年から営々と続く高知名物「日曜市」には、約650の出店が約1.5kmに渡り並び立つ。歴史も規模も日本一。 それと毎年8月に行われる「よさこい祭り」は100以上のダンスチーム、総勢一万数千人が参加し 県内最大のイベント。 土佐人の気質を感じるのにもっともふさわしい祭りである。 |
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1 はりまや橋 はりまや町 |
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「よさこい節」で唄われる、はりまや橋は元々藩政初期に豪商の播磨屋と櫃屋が互いに往来するために堀川に架けた私設の橋だった。後に公道となり、店が立って賑わうようになる。 1855年、龍馬20歳の時、五台山、竹林寺の僧、純信 と五台山麓の鋳掛屋の娘、お馬が関所を破って恋の逃避行を決行。 ところが役人に捕まり3日間哂し者にされ、純信は国外追放、お馬も城下から追放の身となった。 2人はその後二度と会うことなく、別々の人生を終えたという。 のちに純信の誕生地の土佐市市野々には純信堂が、お馬が追放された須崎市にはお馬神社が建てられている。 現在、はりまや橋を中心にはりまや橋公園が整備され、ここに新旧4つのはりまや橋がお目見えした。 隣接する、はりまや橋商店街には全国で唯一といわれる木造アーケードが完成し、はりまや橋とともに街に彩を添えている。 なお、「よさこい」とは「今夜来い」との意味らしい。 |
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2 才谷屋跡 上町3丁目周辺 |
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坂本家の祖先は近江坂本の城主、明智光秀のいとこ光春だったという。主君、光秀とともに織田信長を討ち取った後、豊臣秀吉に破れ 高知まで逃げ南国市才谷村に潜んだ。 ここで農耕に従事していたが、1670年ごろ、高知へ出て商いを始めたという。 この才谷屋跡地では、現在「喫茶さいたにや」が営業している。この店は、龍馬ファンが集う店の一つ。店内には、龍馬関係の書籍や季刊誌、二階には「龍馬研究会」の事務局もおかれている。 当時、才谷屋は、この喫茶さいたにやの手前から南にかけて広く、南の水路も隔て、さらに南側まであったと推測される。 龍馬自らが先頭となって行った幕藩体制の崩壊という革命は、皮肉にも藩の融資元となっていた自身の才谷屋を没落させた。現在、その子孫の方々は 北海道に移り住み、時々、ここ「さいたにや」に顔を出すという。 |
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3 坂本龍馬誕生地 上町1丁目7 |
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誕生地の碑は、昭和初期 田中光顕(元、陸援隊士、宮内大臣)書による木柱が最初で、現在の碑は地元高知出身の吉田茂揮毫のもの。 坂本家はこの付近から南側水道町までの広い敷地を持っていた。(上町病院やホテル南水、龍馬郵便局一帯)領知高、約162石。 数年前までは、車道側に電話ボックスがあり、屋根の上に妙な顔の龍馬の胸像があったが今はない。 |
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4 日根野道場跡 上町2丁目 月の瀬橋東側周辺 |
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龍馬誕生地から歩いて5分くらいの鏡川湖畔の「築屋敷」と呼ばれる かつての竹薮の中に、日野野弁治(小栗流)の道場があった。 龍馬は14才から19才までこの道場の師範代、土居楠五郎の徹底的に鍛えられた。 門人は上士よりも下士の方が多く、中には龍馬の姉、乙女ねーやんもいたと思われる。 この近くには、城下を洪水からも守るために12ヶ所の水丁場を設け、出水の状況に応じて水防組が出勤したといわれる頃の石碑が残されている。 |
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5 河田小龍塾跡 上町3丁目 |
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藩の絵師であり学者。今の水天宮社の社の北西方面に彼の学塾「墨雲洞」があった。彼のもとには、武市半平太、田中光顕、土方久元、近藤長次郎、長岡謙吉、新宮馬之助らの壮々たるメンバーが教えを請いに集まった。 龍馬も彼からジョン万次郎の話を聞き、強く影響を受ける。「あなたは人を作って下さい。私は船を作ります」といって河田小龍と別れた龍馬は、のち亀山社中を作り、そこには河田の弟子が盟約どおり後から多数入隊してきている。 |
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6 徳弘董斉邸跡 中須賀町 |
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現、中須賀公園がその敷地跡。 龍馬は、1853年 江戸滞在中に佐久間象山から砲術を学んでいるが、その6年後にはこの徳弘薫斎からもオランダ式砲術を学んでいる。 彼の弟子の中には、龍馬の兄権平や、岡田以蔵、武市半平太らがいる。 徳弘董斎は絵も嗜み、武市は彼から絵も習っている。 |
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7 近藤長次郎邸跡 上町2丁目7番 |
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イギリス秘密留学が露顕し、妻と長男を残し切腹。介錯もない、哀れな死だったという。享年29歳。 龍馬はお龍に「自分がいれば、あんなことはさせなかった」と語ったという。新婚生活の借家も龍馬の世話であった。 彼の墓は、オランダおイネ、二宮敬作らと同じ 長崎の晧台寺の小曽根家墓地の一区画にある。 墓碑名の「梅花書屋」とは小曽根家の離れ座敷の部屋名で、この彫られた文字は 龍馬又は高杉晋作の書と伝えられている。 |
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8 河野満寿弥(敏鎌)誕生地 上町2丁目 |
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河野敏鎌は龍馬が沢村惣之丞と脱藩する時、武市半平太の命を受け、ひそかに朝倉村まで見送った人物。 土佐勤王党の獄の時は、捕らえられ永牢処分を受けている。 維新後は、江藤新平の佐賀の乱を裁いた裁判長や、農商務、司法、文部、内務の各大臣を歴任。子爵。 |
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9 池内蔵太邸跡 西町20 |
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池内蔵太には、龍馬が弟のように可愛がっていたふしがあり、彼及び彼の母、妻宛ての手紙が多く残されている。 長州の外国船砲撃、吉村虎太郎の天誅組の挙兵、禁門の変、長州の内戦と戦った歴戦の勇士であるが、亀山社中に加入後、ワイルウェルフ号遭難事件で長崎五島列島沖にて死亡。26歳。 龍馬は、後に現地近くの有川町を訪れ 彼らを丁重に葬ってくれた、住職らに礼を述べ、金を出して墓を建て碑文をしたためている。 |
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10 望月亀弥太邸跡 西町 |
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小南五郎右衛門の命により高松太郎(坂本直、龍馬の甥)らとともに龍馬の紹介で勝海舟の神戸海軍塾(海軍操練所)に入塾。 のち塾を脱け、北添佶磨らと池田屋に集結中、新選組に襲われ 重傷を負い、いったんは逃れたが、逃げ切れず自決。27歳。数学が得意な青年だったという。 門下生の中から反幕運動者が出たことにより勝の立場は悪くなり 当時の役職、軍艦奉行を罷免され、海軍操練所も閉鎖された。 |
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11 小南五郎右衛門邸跡 大川筋 |
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藩の上士の中で数少ない勤王党の理解者だった彼は、吉田東洋暗殺後は、武市らの支持で大目付兼仕置役となり、藩政の実権を握る。 が、勤王党獄の時には連座し、名字帯刀取り上げ並びに永牢の刑を受けた。 のち特赦を受け、維新後は宮内省御用掛など務め、明治15年71歳で没した。 |
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12 弘瀬健太邸跡 井口町 |
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土佐勤王党に加盟し、武市の命により京都を中心に諸藩の志士達と奔走。 しかし、1863年6月の青蓮院宮の令旨事件で、平井収二郎、間崎哲馬とともに容堂の怒りに触れ切腹させられた。平井、間崎より刑が軽いと思われていた弘瀬は、罪に納得できなかったのか 刑場で騒ぎ暴れたという。 龍馬は、この家に再三あがり込んで、弘瀬の生前語り合っている。 |
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13 平井収二郎、加尾邸跡 山手町108 |
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収二郎は、龍馬の初恋の人、平井加尾の兄であり、青蓮院宮令旨事件で切腹させられている。 京都三条家に仕える妹に「龍馬は人物だが書は読まない」「脱藩して京にのぼっても相手にするな!」と忠告している。 加尾は誰に対しても優しい女性であったようで、江戸から土佐に帰る途中、金を使い果たした池内蔵太に路銀や着物、刀までも。また、冬なのに夏の羽織を着ていた弘瀬健太には、「合わせ羽織」を一晩で縫い上げて渡している。 加尾はのち西山志澄と結婚し、墓は東京の青山墓地の西山家に合葬されている。 晩年、龍馬と再会できなかった若き日のことを「女子一生の痛恨」と記す。 平井兄妹は、この山手の邸に生まれ、後 西久万の地に移った。 |
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14 間崎哲馬(滄浪)邸跡 北本町1の36 |
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間崎は16歳の時、江戸に出、それを生かし 高知城下で私塾を開いた。弟子の中には、中岡慎太郎、吉村虎太郎らもいた。龍馬とは江戸で逢い、酒を飲みながら時局を論じたこともある。 近藤長次郎を交え、松平春獄に謁見し、大阪近海の海防策を具申したこともあるという。 生きていれば、武市、平井と並んで維新成就功労者第一級の人物であったと思われるが、容堂から切腹を仰せつかる。2歳の女児を遺し、8歳上の兄が介錯をつとめた。 先祖が住んだという中村市江ノ村(間崎村)に彼の墓(分骨)はある。すぐそばには、間崎滄浪顕彰館もできた。 |
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15 井口事件(永福寺門前)跡 井口町 |
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上士と下士の刃傷事件がこの寺の門前で起き、下士側の2人が切腹という不利のまま一応の決着がつけられた。 結果的には、この事件は、下士勢力が藩政への反発を強め、新たな結束を固め、土佐勤王党結成の伏線となったといえる。 |
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16 雁切河原(現、紅葉橋周辺) 鏡川町 |
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この河原は円行寺、九反田とともに城下の三刑場と言われた。刑場は橋より20mほど下流の北側にあったという。 ここでは吉田東洋、岡田以蔵、野根山23士の清岡道之助の首も晒された。 当時は「渡し」があったのみで橋はなかった。橋が架けられたのは明治2年で雁切橋と呼ばれていた。(今は紅葉橋と改称) |
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17 坂本家第二墓所及び「栄」の墓 小高坂丹中山 |
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近年開発の波を受けて墓地の移転を余儀なくされ、行政まで巻き込んだ騒動が話題を呼んだ。新しく整備された墓地には、龍馬の父母や兄、乙女ねーやんの墓などが並ぶ。 ここには、栄の墓と 栄、密葬の跡といわれる碑もあるが、そのわりとそばに本当の栄の墓でないか?といわれる「柴田作衛門妻、坂本八平女」の刻記の墓標が建っている。これが本物の栄の墓だとすれば、没年により龍馬が脱藩する16年前に栄は死んでおり、当然龍馬に刀を渡すことはできない。昔の定説どおり、刀を渡したのは乙女だったのだろうか?しかし、密葬場所から出てきた骨は、坂本家の妾ではないか?離縁されているのに何故柴田家の墓に入っているのか?との論議を醸し出し、今なお栄の死の真相は、決着をみない。 この坂本家第二墓所のすぐ近くには、乙女の別れた夫(岡上樹庵)と一人息子(赦太郎)の墓もある。 |
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18 薫的神社(山田獄舎) 洞ヶ島町5 |
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ここには山田町にあった獄舎の一部が移転保存されている。かつては、弘瀬健太、平井収二郎、間崎哲馬もこの牢につながれた。 境内入口鳥居脇には、才谷屋の寄進を伝える文字を刻んだ石灯籠もあるが、この人物は才谷屋から「暖簾分け」してもらった人?と思われる。 |
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19 福岡孝弟誕生地 升形1 |
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吉田東洋の鶴田塾で板垣退助、岩崎弥太郎、間崎哲馬らと学び、東洋に抜擢され大監察となっている。 当初、武市らの土佐勤王党を無視していたが、時局を感じ、後藤象二郎とともに大政奉還を容堂に説く。 龍馬、中岡の脱藩罪赦免に尽力し、海援隊、陸援隊を藩の外郭団体とした。 また、龍馬の船中八策をもとに五カ条の御誓文を桂小五郎、由利公正とともに起草する。 尚、坂本家(才谷屋)は、この家老福岡家の預りとなっており、主要融資元でもあった。 龍馬脱藩の際、兄権平は、この福岡家に龍馬行方不明と刀紛失を届けている。 金を借りているものの弱みか、坂本家に何の咎めもしなかったのは、それが起因しているのであろうか? |
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20 板垣退助誕生地跡 本町2丁目 |
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板垣は当初大監察、後藤象二郎とともに、武市ら土佐勤王党の大弾圧を敢行。武市らの釈放を嘆願にきた野根山23士までも一度の審理も行われないまま、全員を処刑した。 容堂の親衛隊長ともいうべき彼も、時代が討幕となってからは、中岡の紹介で西郷、小松らと交流し 武力路線の薩士密約を結び、鳥羽伏見の時は独断で土佐藩士を率いた。 結果的にはこれが明治政府での土佐藩の地位を保つ行いとなり、容堂から東征の功を讃えられ、萩町に別邸を賜った。 人心を掌握する術かどうかはわからないとしても、板垣には美談が多い。 「今日、私がこのようにしてあるのも坂本、中岡両先生のおかげ」と語ったとか、日光に土佐藩士を率いた時、他藩の者は東照宮に狼藉をはたらいたのに土佐藩は、それをせず礼を尽くしたとか、会津戦争では、会津の農民を助けた、とかがそれである。 そのためか下諏訪で相楽総三がニセ官軍として捕らえられた時、甲府にいた板垣がその場にいたら殺されずに済んだのでは?と後世の歴史家は想像する。 |
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