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坂本龍馬、武市半平太に逢えそうな旅 其の弐


21 後藤象二郎誕生地跡   与力町5
明治政府では、晩年、節操を欠くと各方面から指弾され、不人気だった彼も明治24年、特旨をもって武市、坂本、中岡、吉村の四士に正四位を追贈した、九段坂の冨士見軒での記念式典では、弟を伴って上京した武市富子に「半平太を死に追いやったのは、いかにも間違いであった」と詫びている。


22 山田町の番所と獄舎跡   はりまや町3丁目18
車道の狭いこの山田橋の南東部に藩の獄舎(薫的神社に移築保存)があり、この敷地内の一角の処刑場で 平井、間崎、弘瀬、岡田以蔵らは、投獄後、切腹、斬首された。
この獄の前(橋の西側)は番所跡であり、高札場もあった。当時、橋の南側は広小路となっており山田町升形とも言われていた。
山田橋は、北街道、東街道から城下への入口であった。
龍馬は、平井の切腹を聞き「むごいむごい、妹加尾が嘆き、いかがか」と手紙に書き残している。


23 中江兆民誕生地   はりまや町3丁目18
自由民権運動の理論的指揮者であり思想家の中江兆民は、1847年、山田獄舎すぐ東のこの地に生まれた(龍馬より一回り下)。そのためか16歳の頃、平井らが切腹するのを知り、獄の塀をよじのぼってその様子を見ている。
龍馬には可愛がられ、タバコを買いに行かされもしたが、龍馬の死後、「龍馬は梅毒で睾丸が肥大化していたから、殺されなくても性病で死んでいたはず」と知人に語っている。


24 開成館跡   九反田17
慶応2年、藩が殖産興業、富国強兵を目指して建設した建物。
慶応3年、イカルス号水夫殺害事件の折り、容堂とアーネストサトウはこの地で会見している。
また、明治4年、西郷、大久保、木戸、板垣、福岡らが、この地で御親兵献上の案を決議し廃藩置県へとつながった。


25 吉田東洋記念之地  帯屋町
1862年4月8日、小雨の午後10時頃、城中で藩主豊範に本能寺の変を講義し、ほろ酔い気分で帰宅寸前の東洋は、那須信吾ら勤王党員3人よってこの地で暗殺された。(高知の事情通の話では、この地でなく、すぐ近くの交差点だという)いずれにしても東洋の自宅は、この地から少し離れた東側にあったという。
東洋の首は、なかなか切れず、首筋よりアゴに刀が入ってしまい、拝み打ちにしてやっと切り落とし、待ち合わせた河野敏鎌が、雁切河原に晒した。そのためか「首」は上唇から下が無かった。
なお、碑文は近隣を配慮してか「暗殺地」ではなく「記念之地」と書かれている。


26 山内容堂(豊信)誕生地   追手筋2丁目3
1827年、山内家連枝の家、山内豊著、大工の娘、平石氏の長子として容堂はこの地に生まれる。
嘉永元年、藩主の病死により、ラッキーにも前藩主豊資の養子、宗家を継ぎ15代藩主となった。
土佐はわからない人ばかりではない。容堂の実弟、民部。前藩主豊資。16代豊範は皆、武市ら勤王党に理解を示していた。
明治5年、病床にあった容堂は、「半平太、ぬしを殺せしは、我一生のあやまり。どうぞ許してくれ」と自身の姉に語っていたというが、時代が武市らの切望した維新となったからだろうか?
本心から語ったとはとても思えない。


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27 山内容堂邸跡、山内家下屋敷   鷹匠町1丁目
現在の鷹匠公園一帯及びその西側が、容堂邸(通称、散田屋敷)であった。元は、家臣7人の屋敷があったが、それを召し上げ別邸を作った。
土佐の幕末の重要な会議のほとんどはこの地で行われ、西郷も久光の命でここで容堂と会見している。
すぐ東のホテル三翠園の一角には、慶応元年に建てられたという国の重要文化財、旧山内家下屋敷長屋が保存され江戸時代の生活を偲ばせる諸道具が展示されている。
入場無料。なお、ホテル三翠園は、高知市内唯一の天然温泉を持つ。


28 致道館跡   丸の内1丁目8
1862年、文武両道奨励のため藩校文武館が建てられ、のち致道館と改称された。その後この致道館は廃校となり県庁や刑務所として長く利用される。
現在、致道館跡は城西公園として市民の憩いの場所となり、この正門は保存され、当時の面影をとどめている。


29 和霊神社   神田水谷山
和霊神社のある水谷山は才谷屋所有の山で別名才谷山ともいった。
龍馬は脱藩の前日、「吉野の花見に行く」と家族に言い、この神社に詣で武運長久を祈願したと伝えられる。
翌、3月24日夜、龍馬は沢村惣之丞と国抜けを敢行した。
社殿の床板の一部、境内の石灯籠は龍馬脱藩以前からのものである。
昭和60年、龍馬生誕150年記念行事として、ここで脱藩祭が行われた。以来、毎年3月24日は神田龍馬会による恒例の行事として脱藩祭は定着している。


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30 田中良助邸・墓   柴巻
昔、この周辺は坂本山と呼ばれ、坂本家所有の山だった。田中家はその管理を坂本家から任された、いわば山番であった。
一回り以上も年の違う良助に龍馬はとてもなつき、よくここを訪れ、うさぎ狩りや、碁や将棋、邸の横にあった池では水遊びもした。
田中家にはその時の碁盤が保存されている。
また、龍馬はよく良助と庭で剣術の稽古をしていたらしく「日根野道場に通っていた頃と千葉道場から帰ってきた時とでは、腕前に数段の違いがあった」という話も伝わっている。
近年、龍馬27歳の時、武市の秘命をおび久坂玄端に会うための旅費の工面にと良助から2両を借りた証文が襖の下張りから発見された。
去年、老朽化に伴う改良工事が母屋で施されたが、この平屋の柱など基本的な建造物は龍馬が遊びに来た当時のままである。(邸前に巨大な石の塀が建っているが、これは約90年前からのもので龍馬の時のものではない)
50mほど西方には、良助たち田中家の墓地もある。


31 八畳岩   柴巻
田中邸の裏山には八畳岩といわれる巨大な平らな岩がある。
良助に会いにきた龍馬はよくこの岩に上がり酒を飲み、遠くを見ていたそうである。ここからの眺めはとてもよく、眼下に見える高知城に足を踏み入れることのできない低身分を卑下する龍馬に「そんな小んまい事はどうでもいい、その先の海を見ろ!」と良助が夢を与えたと伝えられる。(龍馬が自分で言ったとも?)


32 長芝刑場跡   円行寺長芝
市街から円行寺街道に田中良助邸をめざして車を走らせると 右側に大きな供養石碑が目に入る。この辺りは、九反田、雁切河原とならんで城下三刑場の一つ長芝刑場跡で、ここでは、放火、親、夫殺しなどの重罪人を処刑した。
手前にある円行寺橋は元は涙橋と呼ばれていた。
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33 岡田以蔵の墓   薊野真宗寺山
以蔵が住んでいた家跡は七軒町と呼ばれていた土地で詳細は不明だが、武市道場の近くだったらしい。
以蔵の墓は真宗寺山といわれる山全体が墓地となっている小高い山(丘)の頂上付近にある。
この山の中には、絵金や、田内衛吉(武市の実弟で、身体が弱く、勤王党の獄のとき、拷問に耐えられないと考えて武市が服毒を勧め、それに従って死亡)の墓もある。
以蔵の墓石には「岡田宜振、行年二十年有八」と刻まれている。
すぐ隣の父の墓石を見ると以蔵より後に死亡したことがわかり、司馬遼太郎「竜馬がゆく」で、父が死んだため以蔵は江戸?に出てきた、という記述はフィクションだったことがわかる。


34 川島家   仁井田
龍馬12歳の時、実母、幸は死亡した。
龍馬の継母となる川島(北代)伊与は、九反田の実家から代々、御船倉の御用商人だったこの川島家に嫁ぎ、息子ももうけたが、夫やその息子とも死別し、ここを里として、龍馬の父八平のもとに再嫁した。
龍馬は乙女ねーやんに厳しく教育された、というのが定説だが、龍馬と乙女が鏡川から舟をこいで、この川島家によく遊びに来たとか、乙女が川島家の娘たちに薙刀の相手をしてやったとか、近くの仁井田神社の祭りに来たとか、伊与の甥っ子をよくつれて歩いた、などという話が伝わっているところを思えば、龍馬と乙女は、この伊与に教育されたのでは?考えられなくもない。
その伊与も龍馬が、最後に土佐に帰郷した時には既に亡くなっていた。
なお、伊与の子孫であられる東京龍馬会会員の北代令子さんのうたい文句「宇宙より愛をこめて」の意味は今のところ解明されていない。



35 中城家   種崎
中城家は藩の御船手方をつとめていた。
1867年9月、龍馬は芸州藩の震天丸に乗りライフル銃1,000挺を積み、土佐湾に入り、種崎に上陸し、この中城家に潜伏した。龍馬が、潜伏地をこの中城家としたのは、継母伊与の里、川島家のすぐそばであり、少年時代から中城家の人々とは面識があったから、とされる。
中城家に伝わる話では、火鉢を差し出すと龍馬は「誠にはからずともお世話様になります」と言ったとか、風呂から出て裏の部屋で休憩し、襖張りを見たりしていたという。
この時、龍馬が眺めていた襖絵は、今も中城家に伝わる。


36 仁井田神社   三里仁井田北谷
土佐は相撲が好きな土地柄だが、この仁井田神社は、相撲の神社として津々浦々に知れていた。
昭和56年、この神社の社殿の絵馬の中から夕顔丸の絵馬が発見された。夕顔丸とは、龍馬が船中八策を起草した時の船。この絵馬は、現在、高知市立自由民権記念館に寄託され、最近は京都国立博物館で展示されていた。(皆さん御覧になられたはず)
今、社の中に飾られているのは複製。なお、夕顔丸の模型は坂本龍馬記念館に常設展示されている。
江戸時代、この辺りは、造船所や船倉があり、土佐藩海軍の根拠地であった。船の絵馬が飾られていたことは、その辺のことと関係しているのであろうか?


37 吸江寺   五台山吸江
1867年9月24日、長崎から銃1,000挺を積んで浦戸湾に入った龍馬はここ吸江寺や3キロ東にある料亭、半船楼で、藩の仕置役、渡辺弥久馬や大目付、本山只一郎と銃売却の密談をおこなった。
寺は鎌倉時代、夢想疎石が北条氏から逃れ、土佐に入り、ここに庵をかまえ、吸江庵と名付けたことにはじまる名刹。
道路よりやや高いところに位置し、浦戸湾が一望できる場所であるが古絵図を見ると今、住宅が密集している平地はかつて海で、龍馬の当時は、寺下すぐに銃器を積載した震天丸を停泊させ、それを前にしての会合だったことがわかる。


38 半船楼跡   五台山
前述の吸江寺と同じく銃売買密談の地。
吸江寺より3キロほど東に現在、坂本公民館があり、この周辺が料亭、半船楼があった所。
かつてこの辺りは舟着場や藩の米倉があり、商家も軒を並べ、宿屋や料亭もあったが、昔の賑わいを伝えるものは「坂本」の地名と「百々軒橋」の名のみで、今はその面影もない。


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39 竹林寺   五台山
竹林寺は724年、行基が開創した土佐屈指の古刹。
境内の五重塔、本堂の文殊堂、庭園、宝物殿に安置されている17体の仏像はいずれも国の重要文化財。
龍馬は後藤、渡辺らとこの竹林寺でも密談を行った。
標高140mの五台山山頂にあるこの竹林寺からは浦戸湾を一望でき、停泊している震天丸を眺めながら話し合いは続けられたと思われる。現在、五台山山頂には展望台もあり、浦戸湾や高知市内までも望み周辺には散策道もある。夜景がきれいに見える場所。


40 長岡謙吉邸跡と 41 河田小龍生家跡   はりまや町
長岡謙吉と龍馬は遠縁にあたり、二人は長崎で会い、謙吉は海援隊に加盟する。海援隊の文官的役割を果たした彼は、船中八策のまとめ、大政奉還建白書の草案、作成、海援隊刊行の閑愁録などを手懸けている。龍馬の死後、海援隊隊長となり、三河県知事になったり、工部省に主事したりしたが、39歳の若さで病死。
かつてこの邸には二階建ての建物があり、土塀や松の木も植えられていたというが、今は無し。この長岡謙吉邸のすぐ北は河田小龍の誕生地であり、邸があった所。



42 龍馬亭松うら   追手筋1の10の11
開業年月日不詳。全国各地から龍馬ファンが集う、龍馬の店。店内には龍馬関連の本が所狭しと並ぶ。
壁には全国の龍馬会会員の名刺や、龍馬を演じた上川隆也、巨人時代の松井選手など、芸能人や野球選手、それと龍馬の写真がたくさん。  大将(マスター)の祖先は龍馬と同じ郷士の出で、野球は阪神ファンであるらしい。奥さんは一回りも年の違う綺麗なかたである。「龍馬にまつわる話を聞きたい人は申し出て下さい」と張り紙がしてあるが、言わなくとも午前0時頃になると熱っぽく大将が語ってくれる。この演説は「もう今日はお仕舞い」という事?なので、これを聞いたら店を出なくてはならない。去年、病気で少し体調を崩されたようである。太り過ぎに注意して、いつまでも我々龍馬ファンのために頑張っていただきたいものである。



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43 武市半平太旧宅、墓、瑞山神社   仁井田3021
「善く西郷吉之助に似たり、真に君子なり」樺山三円。「当世第一の人物、西郷吉之助の上にあり」久坂玄瑞。「眼光人を射る」佐々木高行。と、評され吉田東洋も「瑞山先生」と敬称し、かの容堂でさえ 武市のお目見えの時は、容をあらため整然とむかえたという武市半平太(小楯)は1829年、この地に生まれた(龍馬より6つ上)。20歳の時、父母を相次いで亡くし、家督(52石)を相続。結婚したばかりの妻富子と祖母を伴い新町田淵(武市道場跡)に転居するまでこの家で暮らした。小さな庭の池も当時のままであり、客間の柱には武市が文字を刻んだ痕も残る(国指定文化財)。
武市切腹に伴い士族籍の剥奪と家禄打切りにあい生活苦となった妻富子はこの家を手離し、城下の長屋のような家に住み、裁縫と羽子板の押絵で生計を立てた。(富子の作った押絵は出来栄えがよく、よく売れたという)武市が育ったこの家はその後持ち主が転々と変わり、現在坂本さんという方が住んでおられるが、坂本龍馬とは全く関係ない。
明治10年、武市半平太に特旨がでて名誉回復。同24年には、武市、坂本、中岡、吉村の四人に正四位が贈られた。」しかし富子の生活は依然苦しく、養子、半太は日露戦争にとられ、4畳半の小さな部屋に一人侘しく暮らしていた。明治39年、当時宮内大臣となっていた元土佐勤王党員の田中光顕がそんな富子を見つけ、心をつくして一家を遇し出す。田中は、東京の瑞山会会員の支援も受け武市家養子半太に医師の資格を取らせ、故郷の檮原村で開業させる。田中は富子と一緒に移動する時などは富子を馬車に乗せ、自分は大臣の身ながら徒歩で付き添ったという。それ程までに、田中は盟主武市半平太を尊敬していた。
この頃になると富子らの生活もやっと安定し、晩年は少しながら酒を嗜むようになる。三味線を弾いて、よさこい節を唄うこともあった。村の人や役人など訪ねてくる人に揮毫を頼まれると好んで書いたのが「寿」と「仁以来」。後者は半平太の獄中自讃の一部であった。大正6年、86歳にて没。墓は半平太に寄り添うように建っている。
< 追記 >
毎年、武市が切腹させられた5月11日にこの境内で「瑞山祭」が行われる。出席者は武市の子孫の方々、近所の世話人の方々、観光協会の人、それに剣舞や詩吟を披露する人たちのみでありファンと称する人は一人もいない。「竜馬がゆく」が世に出る昭和30年代まで、高知では武市を一番に顕彰していたという。しかし、「竜馬がゆく」とそれを基にしたドラマや映画の影響か、龍馬が「正」武市が「誤」と見なされているその後の状況はとても嘆かわしい限りである。
   

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