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坂本龍馬、武市半平太に逢えそうな旅 其の参


44 武市半平太道場跡   新町田淵(現、桜井町)
半平太21歳時、吹井村(仁井田)から妻富子の実家のあるこの地に彼らは移り住み、叔父、島村雅事と邸内に道場を構えた。門人は約120人。中岡や以蔵もいた。
龍馬、中岡、吉村が富子が剥いだ柿を食べた時の三者三様の有名な逸話や門柱でよく放尿する龍馬にたまりかねた富子が半平太に訴えると「龍馬ほどの人物だ、小便ぐらい大目に見てやれ」といった話は、すべてここでおきている。また、稽古の後、よく龍馬が水を浴びていたという新堀川もこのすぐ近くを流れる。
現在、跡地を語る碑は横堀公園という公園内にあるが、元々はこの道路の北側に設置されていた。
道場は、間口6間、奥行4間あった。実際に邸と道場のあった場所は、ここから30m東の道路の北側だったと推定される。
   


45 武市瑞山殉節地   帯屋町
半平太は、この南会所の上士の入る未決因獄のなかで1年9ヶ月余り投獄され、1865年閏5月11日、この地、南会所の大広庭(吟味場)で、切腹させられた。享年37歳。
当日の夕方4時ごろ、富子ら家族の元に、武市切腹と決まり、時間はおおむね夜の8時ごろとの役人からの連絡が入った。
すぐに富子は新しい裃のなどを整え、介錯は、半平太の義弟と義甥と決まった。
半平太自身は午後6時過ぎに罪文を読み上げられそれを知り、前から察していた切腹を仰せつかった。
長い間の牢獄暮らしのため、痩せ細り、下痢、腹痛、発熱のため歩くことも出来なかった半平太は、以前から牢番に予告していた三文字の屠腹を後藤らを前に気力をふりしぼって行った。
上半身を支えるため手を前についたが、そのまま伏せ、両側より介錯人が脇腹を6刀ばかり刺し絶息させた。
遺体は新町田淵の道場邸に運ばれた。富子は約2年ぶりにあい見る夫の顔と、つい先程届けたばかりの新しい衣類を身に付け血に染めた姿を見て ブルブルと震えるばかりであったと言う。
葬議は翌12日に取りおこなわれ、遺体は祖先の人々が眠る吹井の里に葬られた。会葬者の列は延々12キロを超えていたという。
よくドラマやマンガでは、拷問を加せられた勤王党員らの苦痛の声が武市の耳に入り、武市はもだえ苦しんだ、となっているが、武市が入れられた南会所と下士の勤王党員らが入れられた山田獄舎とでは距離が離れすぎていて聞こえるはずもない。実際は仲介をしてくれていた牢番から逐一 武市は報告を受けていた。


46 桂浜公園   桂浜
月の名所、桂浜の古写真見ると 今では考えられないくらい大きな岩がたくさんあり、東北の松島をもっと荒々しくしたような男性的な浜であった。その岩々はダイナマイトにより壊され、今は影、形もない。
龍馬像は昭和3年、早稲田の学生だった入交好保が発起人となり政財界人の助けを一切かりず、全国に募金運動を展開し、庶民の力だけで建立した。
台座裏の銘板の「建設者、高知県青年」の刻字がそれを物語る。その後、平成11年には大規模な改修工事が行われた。像のスタイルは上野彦馬が撮った写真といわれるが、この写真はそもそも彦馬の弟子で、龍馬と同郷の井上俊三が寝ていた龍馬を揺り起こし撮影したものと伝わる。
眠くて、かったるいので台に肘をついて斜にかまえたのであろうか?この像は、室戸岬の中岡慎太郎像と向き合っているらしい。ただ、中岡の像の建立には政財界人が関わっている。
坂本龍馬記念館は、現・橋本会長を中心とした県内青年団体が発案計画し、募金活動を行い、8億円に達したところで、高知県と市が2億円の助成と用地を提供し、1991年に完成した。
設立の経緯も龍馬の記念館としてふさわしい。
その他、桂浜には、土方久元、板垣退助による坂本龍馬先生彰勲碑、桂浜砲台跡の石組(弾薬格納庫)、などがあり、坂本龍馬を感じるには一番の場所。
また、高知市街から桂浜へ向かう道筋(黒潮ライン)には、長宗我部元親の銅像や、土佐の国を受け取りにきた徳川方と、旧長宗我部遺臣が戦って戦死者273人を出した地という浦戸一揆の碑も見ることができる。


47 高知城
高知城は、山内一豊がそれまであった桂浜の浦戸城(本丸跡は現、国民宿舎)からこの地に居城を移し 1601年から10年の歳月をかけ築城。
1727年に城下町の大火で焼失したが 1753年に再建され現在に至る。
天守閣は国内に残存する木造天守閣12のうちのひとつ。城内には、来年の大河ドラマの主役となる山内一豊、妻千代の像、それに板垣退助の銅像もある。



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48 箕浦猪吉誕生地跡   梅の辻13
堺事件の実質的責任者、箕浦猪吉は切腹が決まった22人の中で一番最初に腹を切り、悔しさのためか割った腹の中の臓器をつかみ出し、フランス人公使らに投げつけようとした。
この凄まじさに皆、唖然とし、介錯人が焦り、首は一撃では落ちず、三刀目で落ちたという。
続いて11人目が腹を切った時、正視できなくなった仏人は、切腹を止どまるよう言い残して去った。12人目の橋結愛平は舌を噛み自殺を試みたが、その場の人たちに助けられ52歳まで生きた。
 のち、生き残った同志と谷干城らにより53年の歳月を経てやっと11士は、靖国神社に祀られた。


49 立志社跡   中央公園東側
「自由は土佐の山間より出づ」の言葉に象徴される立志社は、明治7年板垣退助らによってこの地に創立され、自由民権運動への大きな役割を果たした。


50 片岡健吉誕生地   本町2丁目
上士の家に生まれ、戊辰戦争では会津攻略に参加。
その後イギリスに留学し、帰国後海軍中佐となるが、征韓論に和し、板垣、林有造らとともに民権運動の中心的結社「立志社」を設立し社長となる。
以後、国会開設建白書の提出により入出獄を繰り返し、第一回衆議院選で当選。以来8回当選し、議長も4期つとめた。明治36年61歳で没。


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51 植木枝盛誕生地   須賀町237
自由民権運動の中枢を担っていた彼の生誕地。邸跡は桜馬場にある。
明治憲法の起草者。明治25年、35歳にして謎の死。


52 楠山塾跡  上町
楠山塾に通う龍馬は、些細なことから上士の子と喧嘩となり、怒った上士の子は龍馬に刀を振り上げた。龍馬は筆箱(弁当箱とも?)でその刀を受け止め事なきを得た。
教師は上士の子の非を認め退塾させたが、龍馬の父八平は、喧嘩両成敗と龍馬も退塾させた。
龍馬の退塾は、上士との間に問題をおこしたくなかった父八平の考えが起因している。


53 左行秀跡   上町2丁目
現、第四小学校の北東、体育館辺りに刀工、左行秀の邸はあった。(鍛冶場は喫茶さいたにやの北西辺り)
鍛冶場のあった旧水道町は、刀など金属を加工する職人が多く住んだ街。龍馬も幼い頃、これら職人の仕事ぶりを見ていたものと思われる。
左行秀は1813年筑前(福岡)に生まれ、山内家御用鍛冶を務める関田勝広に招かれ土佐に入り、鉄砲鍛冶を命ぜられる。
龍馬の兄権平が作らせ、後に龍馬の物となり、親友、甲藤馬太郎の甲冑と交換した刀はこの左行秀の作。



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54 甲藤馬太郎邸跡   鴨部
甲藤馬太郎は龍馬より四つ年下。
剣術は江戸の桃井春蔵に就いて鏡心明智流を修めた。
1858年、龍馬24歳の時、土佐入国の斡旋を依頼してきた水戸藩士、住谷寅之助らと大豊町(土佐と伊予の境)の立川番所付近で会見する時、龍馬はこの馬太郎を伴っている。
そのとき、住谷は日記に「龍馬は政治情勢に疎く、世間のことは何も知らない」と書き残す。
馬太郎は龍馬にとって親友とも言うべき存在で、龍馬は自分の刀と馬太郎の甲冑をせがんで交換している。(甲藤家蔵)
また、馬太郎は藩校致道館の剣術教授を勤めるほどの使い手で,なかなか捕られることのできなかった盗賊を一刀のもとに斬り伏せ藩主から金盃をもらった、などという逸話も残っている。
龍馬の死後、馬太郎はこの村(鴨部)の村長となり 明治33年、63歳にて没した。
龍馬と馬太郎が、仲良く上半身裸で剣の稽古をしていたという庭からは 今も二人の笑い声が聞こえてくるようである。


55 桜井町井戸跡  桜井町
全国でも大変珍しい、道路の四つ角の真ん中に碑が埋められている史蹟跡。
これは井戸の跡で、桜井町の名はこの井戸と井戸周辺に植えられた桜からきているという。ここにあった井戸は、1800年、町奉行の馬詰音親が、近江から水工職人を招いて掘らせたもので、当時は町民たちのオアシスであり憩いの場であったという。


56 岡本寧甫塾跡   桜井町1丁目7の18
元、安田町の寺の僧であった岡本寧甫は、この地に塾を開き儒学などを教えていた。人なつっこい性格のため岡本を慕って門人は千人近くいたという。生徒には、武市半平太、間崎哲馬、清岡道之助、岩崎弥太郎などがいた。
墓は岡田以蔵と同じく真宗寺山の以蔵のすぐ西側下方に建っている。

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57 平井収二郎、加尾邸跡  西久万382
平井兄妹は山手町108の地に生まれ、後にこの西久万高野谷の丘に転居した。
この家には多くの志士が集まり密議したという。
収二郎が元服の時に使った井戸や当時の石垣もそのまま残っている。
収二郎の墓は坂本家と同じく丹中山にある。

   


58 雪蹊寺   長浜
雪蹊寺は、四国霊場三十三番札所であり、戦国時代、四国を平定した長宗我部元親の菩提寺である。
この雪蹊寺の石柱の門を通り抜けたすぐ左側に、無縁仏となった土居楠五郎(保)とその妻の墓石が並んで建っている。 
土居楠五郎は十市町(武市誕生の地、吹井の南東側)の人で、この寺の人が十市から運ばれ捨てられていた墓石の中からこの土居の墓石を発見し、放置するにはしのびがたく、 ここに並べ 最前列に刻名の見えるように設置したという。
土居は日根野道場での龍馬の先生であり恩人。
説明板には、龍馬最後の帰郷の折、種崎で感動的な対面をした、と書かれていた。


59 鶴田塾跡   長浜
雪蹊寺から350mほど東にいった左側に、鶴田塾跡の碑が建っている。
鶴田塾は、吉田東洋が江戸で山内家の親戚旗本松下某を殴り、蟄居を命ぜられていた時に開いた塾で、塾生には後藤象二郎、福岡孝弟、岩崎弥太郎らがいた。

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番外 島村衛吉の墓   南国市久枝
高知龍馬空港のすぐ南、閑静な漁村の海岸際に島崎衛吉の墓と南国市指定の標柱、並びに村の青年団によって建立された「贈従四位島村衛吉先生之碑」が建つ。
島村衛吉は、武市より5歳下、龍馬の一歳年上。
武市と親戚筋にあたる彼は、江戸で剣を龍馬と同じ千葉重太郎に学び、のち桃井道場で鏡心明智流も修め、免許皆伝を得ている。
兄と共に土佐勤王党に加盟。加盟順は大石弥太郎についで二番目であった(ちなみに龍馬は8番目、中岡は16番目)。
勤王党弾圧によって獄中入りとなり ,厳しい攻めの拷問にも耐え一言も発しなかったというが、ついに血を吐き絶命。享年32歳。
映画やドラマの拷問のシーンには必ずといっていいほど、この衛吉が登場する。


番外 武市端山銅像   須崎市横浪半島
龍馬や慎太郎の銅像はあるのに、リーダーの武市の銅像がないのは・・・、と昭和54年、募金によってこの地に建立された。
ここは歴史の舞台とは全く関係なく、市が観光客誘致の目玉として横浪スカイラインというこの景勝地に建てたが、見事にそのもくろみはハズレ、銅像のある公園内のレストランは現在廃墟。数年前、ここの公衆トイレでは誘拐された少女が発見された(命に別状なし)というくらい人影もまばらな場所である。
また、当初完成した銅像は三等身で、極端なアゴ、いかり肩、薄い胸などマンガチックなスタイルで抗議殺到、昭和60年に再建となった。大きさは初代の半分、中岡慎太郎や高知城の板垣退助とほぼ同じ程度だが、新聞の見出しは「半平太、こんどは男前」と人々の支持を得ての除幕式だった。
なお、この半平太の銅像の約1km東の陸の孤島のような地には、いろいろと有名な明徳義塾高校がある。

   


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番外 発生寺   須崎市鍛治町
幕末の当時住職だった智隆という僧は、吉村虎太郎を通じ、勤王活動に参加し、1863年には自らも脱藩している。その頃は、勤王志士がよくここに集い謀議を開いたという。
本堂前の小さな境内には、龍馬が木刀で切り落としたと伝えられる地蔵が。その後ろには、龍馬が植えたとされる松が大きく育っているが、龍馬がそんなことをしたのか 個人的には大きな疑問である。


 
 
   

主要参考・引用文献

龍馬からのメッセージ
龍馬ゆかりの人と土地
歴史の舞台を旅する 坂本龍馬
坂本龍馬を旅する 
坂本龍馬を歩く
坂本龍馬の生涯
龍馬脱藩物語
武市半平太伝 月と影と
維新土佐勤王史のウソマコト
個人発行
坂本龍馬記念館
近畿日本ツーリスト
世界文化社
山と渓谷社
新人物往来社
新人物往来社
新人物往来社
横田達雄氏著

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