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真田一族の歴史が
よぉ〜くわかる本

関東甲信越編






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■ 目 次
第 1章 真田氏の発祥と真田地方  海野氏への従属
第 2章 幸隆、武田信玄の旗下で台頭  
海野平、上田原、川中島の合戦

第 3章 幸隆・信綱父子、上野吾妻へ転戦  
岩櫃城、箕輪城など攻略

第 4章 信玄、幸隆・信綱父子の相継ぐ死
第 5章 昌幸、真田家を継ぐ  叔父矢沢頼綱との二人三脚

第 6章 武田勝頼の死と武田家滅亡  
天目山の戦い

第 7章 昌幸、生き延びるための術  
上田城築城と上田地方

第 8章 第一次上田合戦(神川合戦)  
徳川家康との戦いと春日山城

第 9章 徳川への帰属と名胡桃城事件
第10章 真田父子、小田原征伐に参陣  松井田城〜小田原城

第11章 秀吉の死と東西対立  
父子兄弟、犬伏での別れ

第12章 第二次上田合戦  
昌幸・幸村の秀忠軍迎撃戦

第13章 信之のその後  
松代移封と松代地方

第14章 信之亡きあとの沼田藩、松代藩  
沼田改易と松代近代化


真田一族家系図
人物紹介


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真田一族家系図 



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真田幸隆(幸綱、弾正忠、一徳斎) 1513年〜1574年



 
強い真田の歴史は昌幸の父、幸隆(晩年は一徳斎)の時代から始まる。真田一族雄飛の足掛かりとなったのは、幸隆が武田信玄に出会ったこと。武田の力を背景に山間の小さな村、真田郷から上田平へと勢力範囲を広げるようになる。中でも幸隆の名を高めたのは北信地方の豪族、村上義清の勢力下にあった砥石城(戸石城)の攻略である。
信玄は砥石城の攻防戦で生涯最大ともいうべき敗北を喫していた。その砥石城を幸隆は調略により乗っ取り、武田家中の有力武将へと成長。以後武田二十四将の一人に数えられ、信州先方衆として戦野で活躍、「敗け知らずの鬼弾正」と恐れられる。もちまえの才覚で真田氏隆盛の礎を築き上げた智将幸隆だが信玄病没の翌年、主君のあとを追うように死去。享年62歳。その時、総身には戦功の証として60か所の負い傷があったという。




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真田昌幸(安房守) 1547年〜1611年


NHK大河ドラマ「真田太平記」より
昌幸は父幸隆の三男として生まれた。幼名を源五郎といい、幼くして人質として武田信玄のもとへ送られ、信玄の小姓、側近として仕える。武田家にゆかりのある武藤家を継いで、武藤喜兵衛と名のり、兄、信綱・昌輝とともに武田二十四将に数えられるほどの実力であった。のちに二人の兄が「長篠の戦い」で戦死、真田家は三男、昌幸が継ぐこととなった。昌幸29歳の時である。
稀代の戦略家として武勇をとどろかせ、千変万化の謀略を駆使して領国を必死に守り抜く。執念を燃やし築城した上田城では徳川の大軍を2度も討ちのめした。
関ヶ原戦後は配流先の高野山九度山で65年の一生を閉じたが、今日に至る真田の名声は、彼が作り上げ、二男、幸村が華麗な仕上げを施したものといえる。
「小信玄」と言われていた昌幸、大坂の陣まで存命であったなら歴史は変わっていただろうか?



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真田信幸(源三郎、伊豆守、信之) 1566年〜1658年


NHK大河ドラマ「真田太平記」より
昌幸の長男。幼名は源三郎。真田家では代々長男の夭逝が相次ぎ、この名が付けられたと言われる。関ヶ原の戦い後は幕府にはばかってか真田家に伝わる「幸」の文字を「之」と改名している。弟、幸村の活躍の陰に隠れることが多い彼だが、幸村に劣らぬ猛将であり、第一次上田合戦、小田原の役の松井田城攻めでは勇猛果敢な攻撃で相手を蹴散らした。
家康の養女と結婚したためか、父弟と別々の道を歩むこととなったが、終生、父、弟を大切に思い、流された彼らに生活費や物資などの仕送りも続けた。
徳川方からは常に疑いの目を向けられ苦労も多かったが、後に幕府の老中を輩出するほどの名家となった松代藩の基礎を築いた。信幸は長命で、93歳まで生きた。しかも90歳を超えるまで藩政に携っていた。
真田の名を後世に伝えたのが信幸であったことを考えると、父や弟と同様か、またはそれ以上に評価されてもよい人物といえよう。



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真田幸村(源二郎、信繁、左衛門佐 さえもんのすけ) 1567年〜1615年


NHK大河ドラマ「真田太平記」より
昌幸の二男。母は信幸と同じ山之手殿。兄弟仲は良く、兄、信幸を最後まで敬愛する。現在残る幸村の手紙では、人柄の良い他人に優しい性格がにじみでる。信幸からは「物事に柔和忍辱にして強しからず」と評されたように誰からも親しまれた。
人質として赴いた上杉景勝に我が子のように可愛いがれ、義を感じ、父を助けるためもあってか関ヶ原では石田方に組する。のち大坂冬の陣では出城「真田丸」を築き、亡父から受け継いだ知略、戦の駆け引き、用兵の機微を巧みに駆使し、局地戦ながら徳川に3度目の敗北を味わせた。
冬の陣後、家康についていた叔父の信尹(のぶただ)より徳川方への勧誘(10万石、さらには信濃一国を提示)があったが、幸村はこれを断わり、夏の陣へと向かう。
家康本陣を2度も襲い、一時は家康に自刃を覚悟させるまでに至ったが、奮戦ののち戦死。49歳。長男、大助も秀頼に殉死し大坂城はおちた。
これら幸村の驚異的な戦いぶりは、さまざまな伝説を生み、江戸時代の芝居や錦絵で人気を博し、現代に至っても、小説の題材となっている。「真田、日本一の兵なり」と。



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