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「真田一族の歴史がよぉ〜くわかる本」 関東甲信越編

第7章 昌幸、生き延びるための術
上田城築城と上田地方



69. 鉢形城跡  埼玉県深谷市寄居町鉢形

武田家が滅びることを見越して真田昌幸は、かねてから交誼がある鉢形城主、北条氏邦に密書を送り意を通じていた。信長が信濃、甲斐を席捲すると信長にも恭順の意を表し、黒葦毛の馬を1頭贈っている。この頃から昌幸はいわゆる「表裏比興の者」として周辺の大勢力の中で揺れながら自立への道をたどり始める。北条家三代当主、北条氏康は小田原を本城とし、自分の息子たちを八王子、韮山、岩付、鉢形城などに配置した。
彼らの活躍によって北条氏の勢力は益々拡大、四代氏政、五代氏直の頃には関東一円を治める「大守」となった。
関東地方において有数の規模を誇る鉢形城は北関東支配の拠点として、更に信濃、甲斐からの侵攻への備えとして重要な役割を担っていた。現在、城跡は国指定史跡公園として整備され、土塁、門、池などが復元された。公園内には歴史館も建てられ鉢形城の歴史や構造を映像などを交え、分かり易く紹介している。
北条氏邦は1585年、徳川家康の第一次上田出兵の折には家康と呼応し、一万余りの軍勢で沼田城を攻めた。しかし城代、矢沢頼綱の反撃にあい攻め落すことは出来なかった。
鉢形城は1590年、秀吉による小田原征伐の際に前田利家・上杉景勝・真田昌幸・信幸父子など北国軍総勢5万に包囲され、2ヶ月余りに及び籠城の末、城兵3,500の助命を条件に開城した。開城後は徳川の関東入国に伴い、家康配下の成瀬氏、日下部氏が代官となりこの地を統治した。降伏した北条氏邦は秀吉の処置によって前田利家に預けられ、その後召抱えられた。500石の知行地を宛がわれ17年後、57歳で能登の地にて一生を終える。

  






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70. 京亭  埼玉県深谷市寄居町

作家、池波正太郎はたびたびこの辺りを訪れ、鉢形城と荒川を挟んだ対岸にあるこの店で鮎飯を堪能したという。

71. 厩橋(前橋)城跡
  群馬県前橋市大手町

武田を滅ぼした信長は上、信州二国に新領主を送り込む。
真田の本拠である信州の小県郡、上州の一国は信長の重臣、滝川一益に宛がわれた。滝川一益は初め箕輪へ入城、まもなく厩橋城に移って上野を支配した。
昌幸は一益の寄騎、滝川麾下の武将ということになり、その支配に従うことを余儀なくされる。小説「真田太平記」では昌幸は一益のいる厩橋城に挨拶に赴く。この時、昌幸35歳、一益58歳。一益は主家が滅亡した昌幸をねんごろに迎え、岩櫃、砥石、真田の各城はこれまでどおり真田家に治めてもらいたい意向を告げ昌幸を安堵させた。沼田城は明け渡すこととなったものの、昌幸は慰めの言葉をかける一益に好感を抱き、以後、滝川家と真田家の縁は数十年に渡って続くことになる。
尚、明治初期、群馬県は吉田松陰の妹、文を娶った長州の楫取(かとり)素彦を県令に迎えた。群馬は昔から行政を行う者にとっては治めにくい土地柄だといわれていた。楫取は教育普及に心血を注ぎ、世の中が西欧の表面的な学問や教育を尊ぶ風潮の中、これに流されることなく道徳教育を最重要とした。
富国の基本は生産増加であるとの信念から農業、養蚕を奨励し、上州産の生糸を直接海外に輸出、前橋及び群馬の基礎を作った。また医学を奨励して県民を疾病から救おうとした。彼は何事にも率先して行動し、その功績は数えきれない。楫取が職務を終えて群馬を離れる時、数千の県民が沿道に足を運び別れを惜しんだという。楫取が去った後も県民は彼を慕い、彼の功績を讃える碑の建立を求めた。
その碑は明治23年に完成、今、前橋城跡、利根川添いの小さな公園にひっそりと建っている。
現在、前橋市と萩市はその楫取との関係があって友好都市として結ばれている。


  
                                楫取素彦功徳碑





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72. 神流川(かんながわ)の合戦  群馬県高崎市新町

武田家遺領の知行割が行われてわずか2ヵ月後の6月2日、信長は本能寺で殺されてしまう。信長死す、の報はすぐに小田原の五代、北条氏直にも達した。好機到来とばかりに氏直は早くも16日、鉢形城の北条氏邦の軍勢に自分の小田原本隊を加えた総勢5万の大軍を率い上野へ出陣した。対する厩橋城の滝川一益は1万6千。両軍は6月18日、神流川南岸、上里町のこの辺りで激突した。北条方は初め3百余の戦死者を出して敗北する。
しかし、翌19日には巻き返して一益を圧倒、3,760の首級をあげる大勝利をおさめた。一益はこれを機に上野を引き払い本国伊勢、長島に引き上げて行った。その後、柴田勝家に近づき羽柴秀吉に対抗したが敗れ、不幸な晩年を過ごすことになる。
上野から滝川一益を追い払った北条氏は関東から織田政権の影響を一掃するとともに念願であった西上野に支配領域を拡大させた。昌幸はというと本能寺の変を知るとすぐさま岩櫃城から兵を出し、秘かに沼田城を包囲した。一益の甥の沼田城代、滝川儀太夫が厩橋の一益から呼び出しを受けた隙に一挙に沼田城に入城、自分の手にもどし、以後、矢沢頼綱に守らせている。


73. 上田城跡
  長野県上田市上田城跡公園内

信長の死により、たがの外れた信州は北条・上杉・徳川の3大勢力の草刈り場と化してしまう。そして7月、昌幸は再び北条氏に帰属する。ところが9月、弟の信尹、佐久の依田信蕃らを介し徳川家康に従属することとなる。家康の配下となっている弟の身上を立ててやった意味もあるが、一歩先を配慮し、智略、武力に勝る家康の力量を見極めた結果といえる。
昌幸にとって真田が自立し、戦国大名であり続けるためには籠城に耐え得る堅固な居城を作ることが急務であった。
徳川の北信侵攻作戦のための拠点形成という名目を口実に家康の武力を利用、後ろ盾とし、上杉から多少の妨害はあったものの1583年4月、昌幸は新城築城に着手する。
上田城は別名尼ヶ淵城とも呼ばれる。当寺は崖下を千曲川の分流が浸しており、そこを尼ヶ淵といったことに由来する。
この地方の豪族小泉氏が建てた城(尼ヶ淵城)を修築、拡大して昌幸は「上田城」とした。天守もなく石垣も少ない小城で決して見栄えのする城ではないが、この城は武田信玄にならった守るよりも攻める城である。1585年には7千、1600年には3万8千の徳川軍がこの上田城に襲いかかったが昌幸は手勢2〜3千でいずれも撃破している。
関ヶ原の戦い後、上田城は徳川方に接収、やぐらは壊され堀は埋められた。その後、上田に移封となった仙石氏により城は再建されたが完全な復興はならなかった。
明治7年上田城は払い下げになり、ほとんどが民間に売られた。北と南のやぐらは接続され遊郭に売られていたが昭和17年、市民の力により買い戻され復元された。
平成6年には、この北と南のやぐらをつなぐ、やぐら門も復元される。


  
                             左、北やぐら。右、やぐら門



74. 芦田城跡
  長野県北佐久郡立科町
                                                       芦田城跡
依田氏(芦田氏)の拠った城。この地方に大きな勢力を持っていた依田氏は武田氏滅亡後、遠江で家康に助命された。
「依田記」によれば、佐久郡芦田に在した依田信蕃が家康の命により使者を二度にわたり昌幸のもとに派遣し説得、三度目には昌幸自身が芦田に赴き信蕃と対面。昌幸と家康とが起請文を交換することで和議が成立し、昌幸が家康に臣属したことになっている。
信濃の諸侍を家康に臣属させることを任務として本領佐久郡芦田に帰還し、着々とその実を上げつつあった信蕃にとって、隣郡小県の真田昌幸を説得することは重大な主命であり、徳川配下として自己の地位を確保するためにも大きな役目であった。
依田信蕃、弟の真田信尹らの勧誘を受け入れ、昌幸の家康臣属は成功するが翌年、信蕃は反徳川である岩尾城を攻めて戦死してしまう。



75. 岩尾城跡
  長野県佐久市鳴瀬
                                                         岩尾城跡
1582年6月の本能寺の変後、神流川の合戦に勝利して上野から滝川一益を追い払った氏直・氏邦率いる北条軍はその余勢を駆って信濃佐久郡を占領、さらに甲斐へ進軍して都留郡までも占拠した。ここで一足早く南から甲斐に出陣していた家康軍と遭遇、両軍は3ヵ月近く睨み合う状態が続く。
こうした矢先の10月、信長の子、信雄・信孝の仲裁により家康と北条との間に和議が成立した。
(この和睦の条件がのちの「第一次上田合戦」へと発展するわけであるが・・・。)
しかし、この和議は名目的なもので、引き続き佐久の岩尾城、丸子城辺りでは激しい領地の争奪戦が繰り返される。
昌幸はこの頃、徳川方として依田信蕃を助け、小県郡に浸透する北条方の勢力を一掃することに勤めていたが、1583年2月、依田信蕃は北条方の岩尾城を落すため塀をよじ登ったところを狙撃され、弟、信幸と共に戦死してしまう。(家康はのちにこの信蕃の嫡男、康国に松平の姓を与え小諸城主とする)
信蕃の死により昌幸は独力で自らの小県を守らなければならなくなり、それは上田城築城へと動いていったともいえる。
岩尾城は千曲川と湯川の合流地点に近い丘陵上を利用した平山城で1478年、この地を分地された佐久郡大井庄の地頭、大井氏の支族、大井行俊によって築城されたといわれる。室町中期から戦国末期までの約百年、大井一族5代に及び居城として使用された城跡で、城主の平常の居館と戦時の軍事的防塞の機能を兼ね合わせた平山城とし、本郭、二の丸、三の丸とその規模をよく残しており貴重視されている。
大井氏は一時期、武田家に出仕したため真田幸隆がその留守を預かり城代を勤めたこともあった。
最後の城主、大井行吉は1583年2月23日、依田信蕃に攻められ信蕃・信幸兄弟を殪しながらも力尽きて開城した。

  


76. 真田石
  長野県上田市上田城跡公園内

本丸の入口の石垣に組み込まれた大石は、昌幸が自ら太郎山(城の北にある)の石切場から選んで城の要石としたものといわれ、信之が松代へ移封となる時、父の形見として持っていこうとしたが、大勢の力をもってしてもビクともしなかったと伝えられる。


77. 真田神社
  長野県上田市上田城跡公園内

上田城跡に現存する3つのやぐら(建設は真田氏の後、仙石氏の時代)の真ん中に位置する真田神社。
本来は幕末に藩主だった松平氏の氏神で松平(しょうへい)神社と称していたが戦後、上田神社と改名。さらに真田氏、仙石氏の歴代藩主も合祀され、真田人気?のためか「真田神社」となった。


78. 真田井戸
  長野県上田市上田城跡公園内

真田井戸は真田神社の南横にあり、非常に底が深い。
途中に横穴が掘ってあり、太郎山へ抜けられるようになっているという。昌幸が築城の折に抜け穴として考えたとか、猿飛佐助が利用したなどの伝説が残る。



79. 二の丸堀跡  長野県上田市上田城跡公園内

二の丸橋下の堀は、けやき並木の遊歩道になっていて、尼ヶ淵をまわり西やぐらに出られる。この堀跡には昭和3年〜47年まで真田町行きの電車が走っていた。けやき並木の東側には二の丸公園がある。春は桜と深緑、秋は紅葉が美しい。


80. 上田市立博物館  長野県上田市上田城跡公園内

二の丸跡にある博物館。建物はかつて上田が養蚕で栄えたことを象徴する蚕室造りを型どって設計された。
真田、仙石、松平と続いた上田藩の資料、上田城、城下町、北国街道の宿場などに関する資料、維新後の歴史的資料、この地方の特産、上田紬、染屋焼、東馬焼なども収蔵、展示している。



81. 本丸土塁の隅おとし
  長野県上田市上田城跡公園内

上田城は本丸の丑寅方角(北東)の隅を「鬼門除け」として切り込んである。二の丸の土塁も同様でこの城の重要な特色のひとつ。
更にその延長線上には海禅寺と八幡社が配置され、いずれも鬼門除けの役目を担っている。


82. 海禅寺  長野県上田市中央北2丁目

古くは開善寺といい、草創は平安前期に遡る。上田、小県地方切っての古刹であり皇室と縁の深かった滋野氏、その系統を伝える豪族、海野氏の祈願寺として栄えた。
武田信玄が小県郡を平定した時、先ず願文を捧げたのは生島足島神社とこの開善寺であった。昌幸の上田築城に当り、開善寺は海野郷から城の北東(鬼門)に移され海禅寺と改称、上田城下町鎮護の寺、となった。以来400年、学問所が設置され信濃における真言宗の談林所としての役を果たし今日に至っている。

  
                              海野郷の海(開)善寺跡





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83. 八幡社(宮)  長野県上田市中央西2丁目

勧請した年月は不詳であるが、海禅寺と同じく昌幸が上田築城に当り、海野郷から鬼門除けのため現在地に移したもの。
真田氏はもちろん、仙石、松平氏も崇敬篤く、藩主自ら参詣したり、社殿の造営、修理等は全て藩費で賄われたという。
弓矢の神と崇められ、正月の射初式の金小的に当てた者はその的と矢を奉納した。仙石氏が奉納した東信地方最大最古の白、黒一対の鷹の大絵馬などがある。



84. 大手門公園
  長野県上田市大手町

上田城の大手(追手)があった場所は桝形跡が残り、現在、大手門公園という小さな公園になっている。
小城といわれながらも三の丸がこの公園の向かい側、現商工会議所(本丸から東へ約600m)附近まであったといい、そのスケールの大きさは地方の平城としてはおどろくべきものがある。
上田城は東は神川の激流、西は岩鼻の断崖、南は尼ヶ淵の断崖、北は太郎山とに囲まれた天然の要害である。
昌幸は東に大手門を築き、城の防備の重点を東方に置いた。
築城当寺は家康を頼みとし、上杉と戦っていたのであるから防御は北に置くのが妥当である。にも拘らず東に重点を置いたということは築城前、築城中から将来の仮想敵国を東の徳川、北条に定めていたといわざるを得ない。
「表裏比興の者」といわれた真田昌幸、上田築城に際しても彼のしたたかさが遺憾なく発揮されたといえる。


85. 上田城下元町  長野県上田市海野町、原町

上田築城と共に昌幸は城下町の形成にも力を注いだ。それは城の防備に役立てる目的の他に、経済活動を活発化させ領内を豊かにするというこの時代の各地の大名が採った政策と軌を一にしている。昌幸は築城に先立って海野氏の本拠があった海野郷(東部町本海野)からは五十数軒、真田発祥の地である原之郷(真田町本原)からは問屋を始め多くの住民を移住させて、現在の「海野町」「原町」の町並みを作らせた。この2つを「上田城下元町」といい、両町は真田、仙石、松平の時代から平成の今日に至るまで上田市の中心をなし、商業経済の発展に寄与している。
北国街道の宿場町としても栄えた海野町。町には「市」が立ち市神が祀られた。平成2年、市神を分霊し、海野町ポケットパークに新たな市神社が建立され、本殿もまたここに移された。原町の市神社では毎年6月30日、市神社の前に2mほどの茅の輪を造り、この輪を八の字にくぐって暑い時期の無病息災を祈るという「夏越の祓(はらえ)」が行われる。

  
海野町                                 原町


86. 池波正太郎真田太平記館  長野県上田市中央3丁目

原町にある文学館。池波正太郎の「真田太平記」を中心に真田氏の活躍をテーマに据えて訪れる人々が歴史を再発見し、上田の街や人と、心豊かに交流できる施設として平成10年にオープンした。池波氏の遺愛品、原稿、自筆画などの展示に加え映像シアター、挿絵ギャラリーなどがあり、年間を通じ真田氏関係の企画展を行っている。
また台東区の池波正太郎記念文庫と姉妹館交流提携を結び、上田市と台東区との幅広い交流を図っている。


87. 上田城下町
  長野県上田市柳町など

城下の基礎ができると次には鍛冶職、染物業者を呼び集め、それぞれ「鍛冶町」「紺屋町」を作らせた。そして海野町には「横町」が、原町には「田町」「柳町」ができ、町並みは連続した。この7町が一般に「上田城下町」といわれる。
昌幸はまた城下を固め、軍事上の防衛目的のため、町の外にいわゆる「城下囲いの八邑」という村々も形成させた。これら城下町、村々は昌幸、信之の時代には未完成であったが、次の仙石氏によって次第に整備され、現在残っているような町名や形ができあがり、村々はだんだんと町屋風に変わり、城下町と区別のつかない町並みになっていった。
鍛冶町で製造する鍬は「上田海野の鍬」と呼ばれ、品質が高く有名だった。紺屋町には江戸時代10軒ほどの紺屋があったが今はなく、現在、火返しを付けた土蔵造りの家並みが続いている。
柳町は今なお北国街道(善光寺街道)の面影を残していて、格子造りの茶房や江戸時代より400年余り続く造酒屋が軒を連ねる。
明治14年に柳町の人々が海禅寺から木管を繋いで上田初の水道を引いた「保命水」も残っている。柳町と紺屋町の境には味噌醸造の蔵が並んでいる。代表的なものは旧藩士が作っていた寺田味噌。
明治末、上田の味噌は年間4万貫の出荷高で県下一だった。

  
柳町                               保命水


88. 月窓寺  長野県上田市中央6丁目

鍛冶町にある寺。真田氏と深い関係はないが、天井に鏝絵の施された唐門や、境内に稲荷社と赤地蔵の堂があることで有名。また、勝海舟の門下生で洋式兵学者として知られている赤松小三郎の遺髪の墓が裏手墓地の中ほどにある。


89. 日輪寺
  長野県上田市中央2丁目

横町にある。屋根の鬼瓦に六文銭を付けた真田氏とゆかりの深い寺。日輪寺では8月初旬、観音様の縁日にりんご祭りをする。胃腸の弱る夏、りんごは大切な薬でもあった。


90. 科野大宮社
  長野県上田市常田

「城下囲いの八邑」の一つ常田(ときだ)にある神社。通称「大宮さん」。
今から1300年も前からあったという神社で戦前は県社という社格をもち、旧上田市では最も格式の高い神社であった。
昌幸が上田城の鎮守としてからは代々藩主や領民の信仰を集め、前述の「八幡社」と同じく社殿の修理等が生じた場合の費用は全て藩費で賄われたという。この宮の境内裏手には真田氏の祖先が牧場の経営者であったことを知る駒形稲荷と六所明神が祭ってある。
尚、江戸時代、科野大宮社の辺りは茶店が建ち賑わい、その先の西へ続く北国街道には鋳物師が集まり鍋釜や寺の鐘、上田藩の大砲なども鋳造していた。
この常田の通りは今も格子造りの家々や、うだつ、土蔵造りの長屋、古い梁、なまこ壁など伝統的な文化が残されている。
ちなみに映画「犬神家の一族」はこの辺りで撮影されたという。

  
駒形稲荷                             六所明神

91. 手打ちそば刀屋
  長野県上田市中央1丁目

常田にあるそば店。池波正太郎なじみの店。


92. 大星神社
  長野県上田市新田

古い由緒をもつ宮で上田城下では常田の科野大宮社と並んで特に有名な神社。天正15年の昌幸と慶長6年の信之の安堵状が残存している。

  

93. 願行寺  長野県上田市大門町

浄土宗の寺で、昌幸が上田築城の時、東部町本海野から移した。信之は松代に移った時、松代にも願行寺を建てている。松平氏が上田藩主となってからはその菩提寺となり、代々の殿様の墓がある。
大正14年、丸子軽便鉄道上田東駅設置に伴い、それまで横町に参道が開いていた願行寺は現在地に移転した。山門は桃山建築の様式と風格を伝え、四本の控柱のある唐様四脚門といわれている。
一光三尊阿弥陀如来立像は善光寺へ参詣できない人々のための出開帳として祀られ、横町の大火の時、その前で火が消えたという火伏観音もある。



94. 大輪寺
  長野県上田市中央北1丁目

砥石城の麓、畑山村に以前あったが、武田VS村上の戦いで焼失したため、昌幸が現在の地に再建した。畑山村には今もこの寺の跡が残っている。本堂は江戸中期、表門は江戸後期の再建である。寺のうしろ、墓所の中央小高い所に昌幸の正室、山之手殿(法号は寒松院)の墓がある。山之手殿は信幸・幸村の生母。昌幸の動向を封じるため、人質となったこともある。
武田家滅亡の時は新府城に、また関ヶ原の合戦を控え、石田三成が昌幸を大坂方に味方するよう勧誘した時は大坂城に留め置かれた。しかし、いずれも危うく脱出し上田に戻っている。昌幸が高野山九度山に配流された折は上田に残り仏門に入る。1613年6月3日、昌幸3回忌の前日に没した。自害という説もある。
大輪寺は信之が松代移封となった時いっしょに移り「大林寺」と称している。上田に残った大輪寺は仙石、松平氏の庇護を受け、今日に至る。

  
             NHK大河ドラマ「真田太平記」より


95. 芳泉寺  長野県上田市常磐城3丁目

浄土宗の寺。昌幸は上田築城ののち、千曲川の南、下之条にあった全称庵をここに移し常福寺とした。信之はこれを菩提寺として、正室、小松姫が逝去した時、遺骨をここに納めた。(のち信之は松代移封となった時、小松姫菩提のため松代には大英寺を建てている)真田氏が移った後、入部した仙石忠政は小諸から自分たちの菩提寺であった宝仙寺をここに移し芳泉寺と改め、以来、仙石氏の菩提寺とした。境内には仙石氏初代秀久、その子忠政及び忠政の長子政俊の墓が並んである。
小松姫(稲姫・法号は大蓮院)は徳川四天皇の一人、本多忠勝の娘であったが家康の養女となり信幸に嫁いできた。
姫の婿選びの時、家康に呼ばれた諸大名と信幸は平伏して居並んでいた。姫はその諸大名一人一人の髻(もとどり)を?んで顔を見比べていたが、信幸だけはその態度に立腹し、鉄扇で姫の手を打ち据えた。姫はその気概に感心し、嫁入りしてきたという話が伝わる。
小松姫は真田家と徳川家康・秀忠との間で重要な橋渡しの役目を果たしていた。関ヶ原の合戦後の昌幸・幸村父子の助命運動には父、本多忠勝、夫、信之をよく助けたといわれる。
高野山配流となった昌幸・幸村には信之からの金銭の援助の他に、小松姫も何かと心配りをして贈り物などしている。
賢夫人としても聞こえ高く、大坂冬の陣、夏の陣の折、病で出陣できぬ信之の不利を思い、実家に手を回し、幕府連署の末尾に、代わりに嫡男、信吉の出陣を促す文言を加えさせ、信之の面目を保った。
1620年、病を患い江戸屋敷から上州草津に湯治に向かう途中(沼田に帰る途中だったとも?)、武州鴻巣で死去。48歳。信之はこの時「我が家の灯が消えた」と言って嘆息したという。墓はここ芳泉寺と逝去した鴻巣の勝願寺、沼田の正覚寺にもある。(後述)

  
NHK大河ドラマ「真田太平記」より                        
小松姫の墓    


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