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「真田一族の歴史がよぉ〜くわかる本」 関東甲信越編

第4章 信玄、幸隆・信綱父子の相継ぐ死




47. つつじヶ崎館跡(現・武田神社)  山梨県甲府市古府中町

1573年4月、信玄は上洛途中の信濃国伊那駒場(こまんば)で死去した。53歳であった。信玄を襲った病気は胃ガンとも結核ともいわれている。信玄死去のニュースは瞬く間に漏れ流れ、北上州からは謙信が、三河方面からは家康がすかさず武田領内に侵入し始める。
武田方にとってこうした四囲緊迫する時期に、幸隆が信玄のあとを追うように翌年5月、吾妻岩櫃城で病没した。享年62歳であった。
幸隆亡きあと真田家は嫡男、信綱が継いだ。しかし、長篠の戦いにおいて弟、昌輝とともに戦死してしまう。そして跡を受けたのが三男、昌幸であった。
つつじヶ崎館は1519年、武田信虎が石和より館を移し、勝頼が韮崎に新府城を築いて移るまでの63年間、武田氏の本拠地、甲斐の政府として天下にその名を轟かせた。周辺には武田24将を始めとする諸将の屋敷が立ち並び、初期の城下町を形成していた。
武田氏滅亡後は甲府に入った家康によって館は再建される。
その後、入国した豊臣大名の浅野長政らによって城下も再編成されていった。しかし、この南に家康によって江戸城防衛の外郭として甲府城が完成すると館は使われなくなり廃止された。
大正8年、跡地には武田神社が創建され、館跡は国指定史跡となる。


48. 信綱寺  長野県上田市真田町横尾

この寺は当初、横尾城の東にあって「大柏寺」と称した。
それから現在地に移り「打越寺」となり、その後、信綱の墓所として昌幸が信綱寺と名を改めた。
この付近は往古から内小屋と呼ばれ、真田氏が鎌倉時代頃まで土豪として館を構えたゆかりの地と想定される。その関係もあってか昌幸は真田の嫡男、信綱の菩提寺をここに定めたといえる。
幸隆の死後、この長男、信綱が真田家を継ぐ。信綱は父と共に各地を転戦、30を超える頃には第一戦で活躍していたことが古文書から推定される。幸隆が上州の経略に専心している時は小県の本領を信綱が預かって統治していたことも知られている。信綱は源太佐衛門と称し、二男の昌輝(兵部)・三男の昌幸(武藤喜兵衛)と共に江戸中期の「武田24将図」にも描かれている。1575年、長篠の戦いで信綱・昌輝兄弟は戦死。時に信綱39歳、真田の当主たることわずか一年余であった。
信綱の首は家臣の白川兄弟によって陣羽織に包まれ、鎧と共に持ち帰えられ、信綱寺の墓前の桜の下に葬られた。(白川兄弟は主君を弔ったあと殉死したと伝えられる)その後1717年、寺の移築に伴い、墓所は裏山の現在の場所に移され、夫人と弟、昌輝と共に厚く弔われている


  


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