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「真田一族の歴史がよぉ〜くわかる本」 関東甲信越編

第6章 武田勝頼の死と武田家滅亡
天目山の戦い


59. 新府城跡  山梨県韮崎市中田町中条上野

長篠合戦の敗北後、勝頼は鉄砲などの導入に力点を置く軍事改革など慌しく再編成に着手し、織田・徳川同盟に対抗する準備を進めた。しかし、足利、浅井、朝倉氏の滅亡、伊勢長島の一向一揆の壊滅により父、信玄が築いた反信長包囲網軍事ラインは事実上崩壊し、武田家内部では信玄子飼いの武将と勝頼派新興勢力との家臣団の対立が表面化する。さらに武田の経済基盤ともいうべき黒川金山が枯渇するなど武田氏を取り巻く情勢は長篠の時期より更に困難になりつつあった。
1581年1月、勝頼は復権を賭け、昌幸に命じて韮崎に新府城の築城を始めた。工事は急ピッチで進められ、その年の12月に勝頼は本拠地をつつじヶ崎館からこの新府城に移す。
翌1582年1月、勝頼の義弟、木曽義昌が勝頼の課する重税に腹を立て謀反を起こした。信長はそれを合図に家康・北条らと四方から武田領に乱入する。信長軍の猛侵の前に武田方では信玄以来の諸将が続々と寝返り混乱状態となる。勝頼は新府城に籠城しようとしたが、城が未完成であったことや城を守るだけの兵力も残っていなかったため進退に窮する。この時、昌幸が進み出て勝頼の退去先として天嶮の要害で知られる自分の岩櫃城を提案する。
昌幸は勝頼より一つ年少で、少年の頃から信玄に仕え、勝頼とも親しかった。
これには勝頼はじめ諸将も賛成したので昌幸は籠城準備のため急ぎ岩櫃に向った。ところがその後、勝頼の重臣や譜代の小山田信茂が「真田は信用できない」と進言し、勝頼は彼らの薦めもあり故、信玄の信頼も厚かった武田家重臣のその小山田信茂の岩殿城を結局は目指すこととなる。
信玄には「守るよりも出て戦い、外で戦うことによって内を守る」という信念があり、つつじヶ崎には城構えの「館」はあるが「城」はなかった。勝頼の代になると遠江、駿河の状況は急を告げ、信長・家康との決戦に備え勝頼は新府城を築城する。
しかし、完成しないうちに信長の甲斐侵攻が始まったので勝頼は自ら城に火を放って岩殿城に向った。
新府城は断崖の台地に新たに築かれた城で東に甲府盆地を見下ろし、西、北は八方岳をはじめとする甲信の山岳に囲まれた要害の地であった。
城跡には土塁や堀がよく残り、本丸跡には勝頼を祀る藤武神社や長篠で戦死した家臣団の供養塔がある。

  



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60. 涙の森  山梨県韮崎市韮崎町上ノ山

中央道韮崎インターのすぐ傍にある。新府城に火を放ち、東に向った勝頼一行はこの地で城の余燼を見て涙を流したという。

  
                        NHK大河ドラマ「真田太平記」より

61. 大善寺
  山梨勝沼町柏尾

718年、僧、行基開創の寺といわれる。甲斐第一級の古刹で本堂は県内最古の寺院建築、国宝である。
古くから武家の祈願所とされ武田家も厚く保護し、信玄も天文年間に伽藍の大修復を行っている。1582年3月3日早朝、新府城に自ら火をかけて東へ向った勝頼主従は運命の日を前にこの本堂にこもり、武田家の再興と武運を祈って通夜したという。
尚、この付近は幕末、新選組の近藤勇が幕臣200余名を率い、土佐藩兵などの官軍と戦った場所。大善寺東門があった所が激戦地とされ、柏尾古戦場跡の碑と案内板がそれを物語る。


  

62. 岩殿城跡  山梨県大月市

吾妻の岩櫃城、駿河の久能城とともに「武田の三名城」あるいは「関東の三名城」といわれた。小山田氏の築城といわれるが築城者、築城時期ともはっきりしない。
1582年3月7日、勝頼一行は岩殿城を目指し鶴瀬に達した。その時、城主小山田信茂は一足先に岩殿に帰って城の備えを固め、それから迎えに来る、と言って勝頼一行から離れた。この時、信茂は人質として勝頼に預けていた母を秘かに連れ去っていた。9日になっても信茂が現れないので怪しんだ勝頼が岩殿城へ使者を出したところ、既に笹子峠には小山田勢が勝頼を拒むべく固めていて、勝頼は空しく追い返された。
小山田信茂の変心に激怒したもののもはやどうすることもできず、勝頼らは武田家ゆかりの寺、天目山の栖雲寺(棲雲寺)を目指し落ちてゆく。信茂は裏切者と言われるが、郡内領の領民を守る領主としての責任を感じての行為であったのか? それは今もわからない。しかし織田信長は信茂のような謀反の仕方を蛇蝎のごとく嫌った。
のちに小山田信茂は信長によって殺されてしまう。

  
      岩殿城跡                 NHK大河ドラマ「真田太平記」より

63. 栖雲寺(棲雲寺)
 山梨県甲州市大和村木賊

鎌倉の建長寺の末寺で1348年創建、東天目山ともいう。
1352年作の普応国師木像(重要文化財)がある。
武田家ゆかりの寺で、武田信満は1417年2月、足利氏との戦いに敗れこの寺まで落ち延び、家臣と供に自刃した。
小山田信茂に裏切られ、土民にも命をねらわれ始めた勝頼主従はこの寺を目指し、ここで防戦しようとしたが、この辺り、木賊集落も既に織田軍の手に落ちていた。古府中(甲府)を出た時には一万の軍勢が追従していたが、兵たちは次々と逃散し、この頃にはわずか50名の家臣と40名の女性子供が従うのみ。やむなく勝頼はこの寺の約2km手前、田野の集落まで引き返す。


64. 景徳院(田野寺たのじ)
 山梨県甲州市大和村田野
                                            
 景徳院山門
1582年3月11日、木賊の集落から引き返した勝頼らは、わずかな家臣が織田軍と必死で防戦し、時間を稼いでくれている間に割腹して果てた。勝頼37歳、夫人19歳、嫡男、信勝は16歳であった。ここに甲斐源氏、名門武田家は500年で終焉した。武田家が滅亡し、その3ヵ月後に信長が本能寺で死ぬと徳川家康は武田主従の追善を祈って、この地に一寺を興した。寺は6年後に完成し景徳院(田野寺)といった。
かつては大伽藍を誇ったが度重なる火災に遭い、ほとんどが焼失し、1779年建立の山門(県文化財)が創建当時の面影を残す。境内は武田氏最期の地として県史跡となっており、1775年に建てられた勝頼夫妻・信勝の墓(実際の三人の埋葬地はすぐ傍の首無地蔵といわれる)、三人が自害したと伝えられるそれぞれの「生害石」などがある。
また、最後まで勝頼に従った54名の位牌も寺に安置されている。

  
 中央が勝頼の墓                         生害石

65. 鳥居畑古戦場跡
  山梨県甲州市大和村田野

天目山の戦いでの主戦場跡。


66. 姫ヶ淵
  山梨県甲州市大和村田野

日川渓谷谷あいにある。この辺りで勝頼に供していた女子たちは先ゆきを案じ身を投げた。


67. 法泉寺
  山梨県甲府市和田町

1330年頃、信玄より9代前の武田信武が開いた寺といわれる。
境内に武田信武と勝頼の墓がある。天目山で自刃した勝頼父子の首級は京都に送られ一条大路の辻で梟首された。かつて甲斐に住んだこともあり武田氏との関係も深かった妙心寺58世南化玄興和尚は勝頼の遺骸を引き取って手厚く葬儀を営んだ。
その時たまたま妙心寺にきていた法泉寺、快岳周悦和尚の弟子は勝頼の歯髪を持ち帰り法泉寺に葬った。
信長の死後、新たに甲斐の国主となった徳川家康は信玄・勝頼と親交のあったその快岳和尚に武田旧臣の説得を依頼した。快岳は期待に応え、武川衆12騎の帰属などに貢献したため、喜んだ家康は当寺を勝頼の菩提寺として旧領を安堵し、快岳を中興開山としたという。

  


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68. 恵林時(えりんじ)  山梨県塩山市小屋敷

臨済宗妙心寺派の寺で武田信玄の菩提寺。寺宝の多くは武田信玄公宝物館に展示されている。本堂裏の庭園は夢窓国師の作庭で国の名勝に指定。中門は国の重要文化財。
広大な境内には仏殿など諸堂があり一年中参拝者が訪れる。
5代将軍綱吉に仕えて老中を勤め、甲府藩主となった柳沢吉保の菩提寺でもある。
信玄の死は三年間秘密にされ、長篠の合戦直前の天正3年4月にここ恵林寺で三年忌法要が営まれた。翌年の4月に安骨葬儀が行われ、寺内の墓に納められた。信玄の墓については諸説あるがもっとも有力なのが、ここ恵林寺のものである。
勝頼が死に武田家が滅亡すると信長は武田一族や家臣の主だった者たちを呼び出し、懸賞金を懸けて捜し出し次々と処刑した。残党狩りと酷い仕打ちは人間だけに止まらず、武田氏に保護されていた甲斐の多くの寺院、神社が信長によって焼き打ちにされた。恵林寺では信長に敵対した佐々木一族をかくまったとの理由で織田信忠によって寺を攻撃され、快川和尚をはじめとする百数十人の僧が山門に集められ焼き殺された。その際、快川和尚の「心頭滅却すれば火も自ずから涼し」との遺偈はあまりにも有名で、今も残る再建された山門(三門)にはそのが偈げられている。

快川(かいせん)紹喜・・・美濃国出身。長良の崇福寺で修業、臨済宗の妙心寺でも修業を重ねた名僧である。信玄の要請で1555年、恵林寺住持として入山し、一年余りの滞在で崇福寺に戻る。しかし、信玄の再度の要請で崇福寺住持を辞し恵林寺に再入山した。快川は晩年の信玄の心の支えとなり、また禅学の師として人間形成に大きな影響を与えた。「軍勝五分を以って上となす」の恵林寺に残る信玄遺訓は、快川が説く、ゆとりの思想の表れでもある。
武田の軍旗とされ「風林火山の旗」の名で親しまれる孫子の旗はこの快川紹喜の筆によるものと伝えられる。

           
                山門(三門)

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