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「真田一族の歴史がよぉ〜くわかる本」 関東甲信越編

第14章 信之亡き後の沼田藩、松代藩
沼田改易と松代近代化


187. 真田信吉の墓(天桂寺)  群馬県沼田市材木町

真田信吉は信之の嫡子で母は大蓮院(小松姫)。
大坂冬の陣と夏の陣では弟、信政と徳川勢に加わり敵首27を得るなど戦功をたてた。
1616年、信之が上田に移った後、22歳で2代沼田城主となる。33歳の時、厩橋(前橋)城主、酒井忠世の娘を夫人に迎え二女一男を得る。また、側室との間にも一子(のちの信直)が生まれた。城主として18年間、川場〜沼田用水を完成させ善政を行う。沼田公園に残る鐘楼は、信吉が領民の繁栄と国家安全を祈って1634年に造らせたもの。
同年、江戸屋敷で没し、遺骨は沼田に送られ迦葉山で火葬後、ここ天桂寺に葬られた。享年40歳。

  
                                  鐘楼

188. 茂左衛門地蔵尊千日堂  群馬県利根郡月夜野町

沼田真田氏は五代91年間続いたが、信之の孫のあたる五代信直(信利、信澄などともいう)の時、1681年11月改易となり信直は山形に配流の身となった。領地は没収され、信之が築いた五層の天守をはじめ城郭のすべては破却された。真田氏は戦国以来の高録武士を多く抱え、家臣に給する石高は実に大きかった。それに五代伊賀守信直は酒色にふけり普請好きで浪費が多く、藩財政は窮乏していた。この立直しのため信直は領民の苦境を考えずに無理な検地をし、沼田領3万石を約5倍の14万4千石と加増、増税し、滞納者は水牢に入れるなど残酷な刑罰に処した。
1680年・翌81年は天候の不順から大飢饉となり、農民は餓死する者や他国に逃げる者が続出した。そんな中、信直は江戸両国橋架け替えの用材を沼田領より伐り出すことを請負っていた。この用材の切出し、運搬にも農民は酷使された。
このような惨状を見かねて政所村の名主、市兵衛や月夜野村の中流農民、茂左衛門が時の将軍家綱への直訴を企てた。市兵衛は失敗し斬首されたが、茂左衛門の訴状は家綱の手許に渡った。
1681年10月、真田信直は評定所に呼び出され、上記の罪状、および前述の両国橋用材請負いが納期に間に合わなかった事の他、殺生禁断の霊地、迦葉山で農民を駆り立て大狩遊をした事、参勤の途中、館林で幼女を切捨御免にした事など計10ヶ条の罪を糾明され改易を仰せつかった。
茂左衛門は妻子に別れを告げ、自首しようと江戸に向かったところ幕吏に捕らえられた。一旦江戸送りとなり取調べの上、郷里の利根川畔で磔の刑に処せられた。この時、赦免のため使者が近くまで駆け付けていたが執行に間に合わず、使者は責めを負ってその場で切腹する。
茂左衛門に助けられた利根・吾妻・勢多三郡177ヵ村の農民は彼の死を悼み、刑場跡に地蔵尊を建て供養を続けた。
大正11年には旧領地をはじめ各地の特志家からの浄財により、このような千日堂が建立された。

  
千日堂                           刑場跡

189. 迦葉山(かしょうざん)弥勒寺  群馬県沼田市迦葉山

沼田市の北、標高1,322mの迦葉山の中腹に位置する弥勒寺は848年、天台宗比叡山座主、慈覚大師を招いて開創された。室町末期、曹洞宗に改宗ののち、江戸時代には徳川家康の祈願所として御朱印100石、10万石の格式を許された由緒ある寺。中峯堂といわれるお堂には顔の丈6.7m、鼻の高さ2.7mの日本一の大天狗面が安置され、「天狗のお山」としても知られている。参拝の際に天狗面を借りて帰り、願いが成就したら新しい面とともに奉納する慣わしがある。
本堂東側には歴代住職の墓が並び、その少し離れた場所には何の立て札、案内板もなく、山形に配流された真田伊賀守信直の墓がひっそりと建っている。

  
                                  信直の墓


190. その後の松代藩  長野県長野市松代町

信之が残した莫大な遺金も三代幸道の時代になるとすっかり失われてしまう。江戸城の普請手伝い、善光寺本堂の造営など、幕府から次々と課役を命じられ、多額の出費を余儀なくされる。松代藩は以後、長く財政困窮に苦しむことになる。
江戸後期の七代藩主、幸専(ゆきたか)は幕府老中として活躍した松平定信の二男、幸貫(ゆきつら)を養子に迎え、八代藩主とする。幸貫は徳川家との結び付けを強め、自らも幕府老中となって海防問題を手掛ける一方、藩内の改革にも熱心に取り組み、佐久間象山をはじめ、多くの人材を登用し育て上げ、洋学や西洋砲術を盛んにした。
1847年、善光寺平に大地震が発生し、藩内は火事や洪水も伴って未曾有の災害を被った。財政事情は悪化し、1852年には借金が10万両に達したという。
1853年にはペリー率いるアメリカ艦隊が来航、松代藩はその警備に出動している。幕末の動乱にいやおうなしに巻き込まれ藩論は紛糾、佐久間象山が暗殺された後、ようやく尊皇攘夷に固まる。そして、尊皇派として北越戦争に出兵、明治維新を迎えた。
廃藩置県後、松代城は廃城。最後の藩主、十代幸民(ゆきとも)は子爵に叙せられている。
写真は松代観光のメッカ「歴史の道」。一日中水音が辺りに響く。かつてこの水路は各屋敷の池を結んでいたという。
松代の町には今もなお武家屋敷が数多く残り、城下町の面影を彷彿させる。


191. 旧松代藩文武学校
  長野県長野市松代町松代

佐久間象山らの意見に基き、藩士の子弟教育を目的に造られた藩校。八代幸貫が計画したものの成らずして逝去したため、九代幸教(ゆきのり)が引き継ぎ、1855年開校にこぎ着けた。
建物は漢学を学ぶ文学所とそれに連なる御役所、西洋砲術などを学ぶ東序。漢方、西洋医学などを学ぶ西序の2校舎からなる。その他、剣術所、柔術所、弓術所、槍術所、文庫蔵などがあり、これらの建物では今でも実際に武術の稽古や試合を行う事ができる。
復元ではなく、ほぼ完全な形で現存する藩校は全国でも珍しい。大きな特徴として挙げられるのは、それまで各地の藩校に見られていた儒学中心という方針をとらず、従って孔子廟も設けていないこと。さらに当時は長崎か江戸、大坂以外では学べなかった蘭学が科目に取り入れられたのを見ても、近代的な学校を目指していた事が分かる。のちに西洋砲術が必須とされるようになったが、この成果は戊辰戦争(北越戦争)で発揮されたほか、明治期の陸海軍に多くの人材を輩出したことにも表れている。
明治4年、廃藩で閉校となってからは、そのまま松代小学校の校舎の一部として使われた。国指定史跡。

  
弓術所                              剣術所


192. 真田邸(新御殿)  長野県長野市松代町松代

1862年、九代藩主、幸教が参勤交代制の廃止で、江戸の藩邸から松代に帰って来る母、貞子のための隠居所として新築させたもの。簡素ながら旧大名屋敷の風格を感じさせる建物。大小53の部屋から成り、開け放った障子越しに「水心秋月亭」と名付けられた回遊式庭園が眺められ、四季折々に目を楽しませてくれる。明治維新後は真田家の私邸として長く使われた。
1966年、松代町に譲渡され、1981年に松代城と一体のもと、国の史跡に指定された。
現在、真田邸では、文化活動の講習会や発表会はもちろん、琴や雅楽といった演奏会が開かれている。また庭園や建物を背景に写真撮影などにも利用されている。


193. 旧横田家住宅  長野県長野市松代町松代

横田家は真田家家臣として幕末まで150石の禄を受け、郡奉行などを務めていた。泉水を配した庭園、塀で仕切られた庭、菜園の広さ、土間が狭く座敷の整っている点など江戸時代末期、松代の中級武士の住宅の特徴をよく残している。
主屋は1794年、隠居屋は1820年の建築で屋根は茅葺。

  

194. 真田宝物館
 長野県長野市松代町松代

1966年、真田家十二代当主、真田幸治氏は同家に伝えられてきた大名家資料など5万点を松代町に寄贈。同氏の意向に添い1969年、松代町はこの展示館を完成、開館させた。
古文書や武具、調度品、書画などを展示公開し、真田の歴史を今に伝えている。


195. 恩田木工民親(もくもとちか)の墓
  長国寺

松代藩が生んだ日本史上有名な人物として恩田木工と佐久間象山がいる。恩田木工民親は1755年、家老職勝手係に取り立てられ、藩財政の立て直しを計った。倹約を励行して自らも実践、税法を月割定納法に改めて納税の実を上げ、殖産興業に力を尽した。さらに、詩歌音楽など人生の楽しみも奨めるなど、幅広い経世家として知られる。
事績を綴った「日暮硯」は経世済民の良書として著名で、二宮尊徳もこの書を座右の銘として愛読した。
1763年没。正五位を贈られる。墓は真田家の菩提寺、長国寺にある。

  
                               恩田木工の歌碑

196. 佐久間象山の墓(蓮乗寺)
  長野県長野市松代町松代

佐久間象山は若い頃から学問に励み、江戸に出て私塾を開くなどして頭角を現わす。八代藩主、幸貫が老中海防掛になって象山に海外事情を研究させたのを機に、洋学、西洋砲術を学び、様々な新しい技術を実験した。大砲の鋳造と試射、ガラスの製造、電信の実験などが知られている。
1854年、弟子吉田松陰の密航事件に連座して捕えられ、9年間の蟄居生活を送る。許されてのち、1864年幕府の命令により京都に出、公武合体、開国論を唱えて活動中、暗殺された。幕末の思想家、先覚者として内外に大きな影響を与え、死後は象山(ぞうざん)神社に祀られる。


  
                          
象山神社

■ 参考・引用文献他

「真田一族の史実とロマン」  東信史学会
「真田一族のふるさと」    信濃毎日新聞社
「古地図で散策する 真田太平記」  人文社
「戦国大名 真田氏の成立」  中之条町歴史民族史料館
「2006真田サミットinあがつま」  東吾妻町
「真田幸村と大坂の陣」  学研
「図説・戦国合戦集」   学研
「秋の信州、真田一族の歴史旅」  トランヴェール
「長野 松代」    エコール・ド・まつしろ
「武田のふるさと甲斐・武田信玄」  武田神社
「名将武田信玄」  武田神社
「武田信玄を歩く」   吉川弘文館
「風林火山ゆかりの地を歩く」  エクスメディア
「葛尾城を歩く」   坂城町教育委員会
「上杉謙信ゆかりの地を訪ねて」   新潟日報事業社
「日本古戦場100選」    秋田書店
「鉢形城開城」   鉢形城歴史館
「義民茂左衛門一代記」   茂左衛門地蔵尊千日堂
「小栗上野介一族の悲劇」  あさを社
「ザ・ビートルズ」   ザ・ビートルズ・クラブ
「森高千里ドゥー・ザ・ベスト」   CD
各博物館、資料館などのパンフレット
各市町村の観光ガイド
各名所・旧跡の案内板
各市町村の文化財保護課の方のお話し
その土地の神社仏閣の御住職、宮司のお話し
その土地の古老のお話し
NHK大河ドラマ「真田太平記」
2007年4月 中堀勝弘 記 

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