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「真田一族の歴史がよぉ〜くわかる本」 関東甲信越編

第13章 信之のその後
松代移封と松代地方


172. 上田藩主居館跡  現、長野県立上田高校

関ヶ原の合戦後の1600年12月13日、昌幸・幸村父子は高野山に流された。この時上田城は廃城となる。この廃城が改めて信之に与えられたのは数年後であるが、信之は居城である上州沼田や江戸屋敷で暮し、上田へは代官として重臣を派遣したに過ぎなかった。城を再建したかったが幕府に憚り、つとめて恭順の意を表していた。ただ信之が上田へ出張の時の館として、旧城の外郭にささやかな構えを設けた。これがのちの藩主館である。信之は昌幸・幸村が釈放され、二人に上田城が返されることを待ち望んでいたが、彼らは二度と上田の地を踏む事なく死んでしまう。信之は幸村も死んだ翌年の1616年、沼田から上田に居城を移す。そして念願だった上田城の修築を幕府に願い出ている。しかし、それは許されず、藩主館での陣屋体制が依然続いた。信之はなおも修築をあきらめなかったが6年後、松代へ転封され、実現できないまま父祖伝来の地を離れることとなってしまった。
現在、上田高校正門として残っている門は、1790年(この時の藩主は松平氏)に再建されたもので、上田藩主居館の表門(薬医門)として使用されていた。仙石、松平氏と藩主が代わり、上田城が復元された後も藩主は代々、この館内で藩政を執った。現在も築地塀や水の湛えられた堀が残り、信之の時代の面影を色濃くとどめている。
尚、上田高校校歌の2番は「関八州の精鋭を、ここに挫きし英雄の、義心のあとは今もなお、松尾が丘の花と咲く」と上田城攻防戦を歌っている。


173. 勝願寺
  埼玉県鴻巣市

大坂夏の陣で天下の大勢が決し、世の中がようやく落ち着きを見せ始めた1620年、小松姫は病に臥す。病養のため江戸屋敷を後にし、草津温泉(沼田とも?)に向かう途中、容体が急変し、武州鴻巣宿の勝願寺に没した。48歳。
小松姫の本廟は上田市芳泉寺にあるが、小松姫が生前、当寺の円誉不残上人に深く帰依していた縁で彼女の二女、松姫が小松姫の一周忌に際し、当寺に分骨造塔した。
尚、当地鴻巣で没した小諸城主仙石秀久の墓、及び1648年2月、やはり鴻巣で病没した信之・小松姫の三男、真田信重とその室の墓が母小松姫との関係で当寺にある。




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174. 仙石秀久の墓
  埼玉県鴻巣市勝願寺

仙石秀久は初め、羽柴秀吉の家臣で淡路国須本城主であったが、1590年の小田原征伐の武功により秀吉から小諸を賜る。のち、家康に仕え、1614年出府しての帰途発病し、同年5月、当寺で没した。遺体は小諸の歓喜院に葬られたが、遺命により当寺に分骨建墓された。
本廟は、仙石氏の菩提寺である上田市の芳泉寺(小松姫と同じ)にある。
尚、信之が松代へ去ったあと、上田城には秀久の嫡男、仙石忠政が入封した。今に残る上田城の三基のやぐらはこの忠政が1630年頃に築いたものとされる。
仙石氏は上田で85年間治政をしいたが、1706年、三代政明(まさあきら)の時、但馬国出石へ移封となる。代って出石から松平氏が上田に入封し、その松平氏が幕末までの164年間、上田城主として小県を治めた。
写真左が仙石秀久の墓。


175. 松代移封
  長野県長野市松代町

関ヶ原の戦い後、信之は家康から父、昌幸の領国を宛がわれ、9万5千石(上田領3万8千石・沼田領2万7千石・加増3万石)の大名となっていた。そしてそれら領国の治政が本格的に進んでいた1622年10月、将軍秀忠は突然、信之に上田から松代への移封を言い渡した。4万石を加増され10万8千石(沼田領を合わせると13万5千石)という一応の栄転であったが、松代は相次ぐ千曲川の洪水で耕地が流失していたため、実質的な石高は上田よりかなり少なかったといわれる。この転封には秀忠の底意地が感じられ、真田墳墓の地、小県から去るには忍びなかったが、逆らうことは不可能であり、この時58歳の信之は従容としてこれを受け入れ松代へ移る。
松代でも信之は藩政に心を砕き、着々と成果を上げる。菩提寺の長国寺などいくつかの寺社を上田城下から移し、町割を再編成。上田や沼田から主君に従ってきた商工業者らは次第に松代の住民と融合し、町人町を形成していった。
財政面では新田開発を奨励し、年貢の増徴を図っている。
米以外に小麦や大豆、ソバなどの雑穀類も多くの村で作らせ、それらのもたらす収入をうまく運用したのか、江戸初期の松代はかなり裕福な藩であったことが記録に残っている。
また、信之は相当な倹約家だったようで亡くなった時27万両もの大金を残していたという。
沼田城では五層の天守閣を設けた信之だったが、松代ではそれを設けなかった。
古くは武田信玄の拠点、海津城として名高い松代城は待城、松城とその名を変え、松代城と改められたのは三代、幸道の時であった。
松代藩真田家は信之を初代として十代の幸民に至って明治維新を迎える。多くの大名が所領を移されたり、家を取り潰されたりする中で、廃藩置県まで松代から動かず、藩主としてこの地を治めたことは特筆に値する。
信之が生涯を懸けて守ろうとしたもの、それは自らの武名などではなく、真田家の存続であり、ひいては領する藩の安泰ではなかったか?しっとりと趣のある町並みと、そこに暮らす人々の穏やかな日々の営みを目のあたりにする時、信之の心は喜びで満たされていたのではないだろうか。

  
松代城                            沼田城



176. 大英寺
  長野県長野市松代町松代

信之が小松姫(大蓮院)の菩提寺として建てた寺。
万年堂と称される小松姫の霊屋(たまや)が現在は寺の本堂となっている。内部の柱や組物にはそれぞれ金箔が貼られていたり、極彩色の彫刻があったりと、実家である将軍家を意識したものか豪華な造りである。
具足に六文銭、陣羽織には葵の紋が描かれ、真田と徳川の架け橋としての立場を表現した勇しい姿の小松姫の画像はここ大英寺の蔵。
その他、小松姫が使用した膳部類、数珠、お守りなど数多くの遺品がこの寺には保管されている。

  

177. 大林寺
  長野県長野市松代町

上田にあった大輪寺(昌幸の妻、山之手殿の墓がある)が信之の松代移封に伴い、松代に移り大林寺と称した。


178. 願行寺
  長野県長野市松代町

上田市大門町にある浄土宗の寺で、昌幸が上田築城の時、現、東部町本海野から移したものだが、信之が松代に移った時、松代にも願行寺を建てた。


 
 

179. 開善寺
  長野県長野市松代町

海野氏の祈願寺として東部町で長い歴史を誇っていたが、1583年、昌幸が上田城を築く時、海禅寺と改称して上田城の鬼門の方角(北東)に移し、上田の城下町を守るための寺とした。この海禅寺も信之といっしょに松代に移り、元の名称の開善寺となる。


180. 白鳥神社
  長野県長野市松代町

白鳥神社は海野一族の氏神であったといい、真田氏も尊崇していた。信之は海野にあったこの白鳥神社も松代へ勧清している。


181. 大鋒寺
  長野県長野市松代町柴

17世紀中頃になると幕府の支配体制も次第に安定し、太平の世が続く。信之は稀に見る長寿を保ったが、それだけに政治の動向には振り回されることが多かった。沼田城には長子、信吉が入っていたが、1634年に没する。その後は信吉の長子、熊之助がわずか4歳で継ぐが、その熊之助も7歳で早世。次いで信吉の弟、信政が城主となる。信之は早くから隠居したい意向を持っていたようだが、幕府はなかなか許可しない。将軍秀忠の頃、真田は睨まれ小さくなっていたが、家光、家綱の代になると関ヶ原の生き残りで武勇の誉れが高い信之を将軍家は『天下の飾り物』とし、引退させなかったという。
1656年、91歳の時、ようやく信之は隠居の身分になった。松代城には沼田から信政が入り、沼田城には信吉の庶子、信直(信利、信澄ともいう)が入った。信政に従って沼田からは多くの地侍も移住し、これで真田家の末は安泰と思われたのだが、翌1658年2月、松代城主となったばかりの信政が急死、跡目問題が勃発した。信政は一子、幸道に継がせたかったが幸道はまだ2歳。沼田の信直が介入してきて相続争いが表面化する。沼田侍はじめ藩士たちは結束して幸道を推し、信之もこれに同調する。信直も猛烈に運動したが叶わず、幕府の裁定は幸道が家督を継ぐことで決着した。
信直はのち内政の失敗もあって改易、真田家は沼田領を失うことになる。(後述の茂左衛門地蔵尊千日堂の項参照)
この解決に費やした心労がもとで病床についた信之は「我、生き過ぎたり」と服薬を断わり、この年の10月没した。93歳。
大鋒寺は信之の柴の隠居所の跡地に建てられた寺で、信之の法号に因んで命名された。
質素な霊屋は隠居所の古材を利用して建てられたという。
長国寺の桃山風霊屋とは対照的な落ち着きを感じさせる。

  

182. 長国寺
  長野県長野市松代町松代

長国寺は1547年、真田幸隆が真田町の松尾城内に真田山長谷寺(しんでんざんちょうこくじ)として建立した真田家の菩提寺。
1564年、松尾城外に移され、昌幸が本格的な禅刹としての諸施設を整えたが、1622年、信之の松代移封に伴って現在地に移転し、寺号も長国寺と改め今日に至っている。
現在の長国寺は旧松代藩主の墓所として国の史跡に指定され、初代信之、四代信弘の霊屋、昌幸、幸村らの供養塔がある。
尚、1649年の格式を示す朱印地の記録によれば、この長国寺と大英寺が百石、大林寺70石、開善寺50石、明徳寺20石となっている。ちなみに松代藩が管轄した善光寺は千石、戸隠山領も千石であった。


183. 信之の霊屋
  長国寺

信之没後の1660年、松代藩が日光東照宮の造営に携わった名工を招き、その建築技術を駆使して建立したという。
天井画、及び壁間絵画は狩野探幽の作。破風の鶴の彫刻は名工左甚五郎作と伝えられる。江戸時代前期霊屋の遺構としては全国的にみても高い水準にある。重要文化財。


184. 信弘の霊屋  長国寺

四代藩主、信弘の霊屋は1736年に建立された。この頃になると松代藩の財政は逼迫しており、その困窮を伺わせるように信之の霊屋に比較すると、極めて簡素な造りとなっている。
長野県宝。現在は信之と信弘の霊屋2棟が現存するのみだが、明治5年の火災におそわれる前は二代信政、三代幸道、歴代藩主の側室方、の計5棟の霊屋が長国寺には存在していたという。


185. 信之と歴代藩主の墓
  長国寺

旧藩主の墓所は面積800平方メートル。藩祖、信之から十二代までの歴代当主(十三代の墓は東京青山霊園にある)と早逝した子女の墓がある。尚、藩主の夫人と側室の墓はここにはない。
信之の墓は他のものと違い、鳥居がついている。

  
                              信之の墓


186. 幸村らの供養塔
  長国寺

この墓所には幸村・大助父子二人の供養塔(写真左)、幸隆・信綱・昌幸三人の供養塔(写真右)が建てられている。
長国寺のパンフレットには、この寺を訪ねる人々のほとんどは幸村の墓があると思って来る、と書かれている。
幸村の人気の高さと共に、しつこいまでに『供養塔であって遺骨は納められていない』と書かれていて頬笑ましい。
御住職はかつて何回も観光客にこのことを説明して、お疲れであったと思われる。

  


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