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「真田一族の歴史がよぉ〜くわかる本」 関東甲信越編

第2章 幸隆、武田信玄の旗下で台頭
海野平、上田原、川中島の合戦


11. 海野平の合戦  長野県上田市国分寺周辺

1541年、小県郡に大きな合戦があった。武田信虎(信玄の父)が東信濃の豪族海野氏を討つため、村上義清・諏訪頼重(武田勝頼の祖父)を誘って仕掛けた戦いであり「海野平の合戦」または「神川合戦」といわれる。
海野氏の一族矢沢氏、常田氏は降参したが、海野氏は関東管領上杉憲政のいる平井城(群馬県藤岡市)へ、幸隆はその上杉憲政の旧臣であった長野業政の箕輪城(群馬県高崎市箕郷町)へ落ちのびた。
その後、幸隆は主家海野氏を見限り、山本勘助の推挙もあって父信虎を追放し、家督を継いだ武田信玄に仕えることとなる。

  
海野平                       箕輪城跡


12. 長谷寺(ちょうこくじ)  長野県上田市真田町真田

海野平の合戦から10年後、幸隆は信玄に認められ、旧領の真田郷を本貫の地と定められ小県に戻ってきた。
その折、長源寺(群馬県安中市)から和尚を招いて幸隆の妻、恭雲院の菩提寺として開山したのがこの長谷寺である。のち昌幸によって整備、充実され真田家の菩提寺となった。信之が松代に移封された時、松代に長国寺を建立したので、以後この長谷寺は松代長国寺の末寺となった。本堂前のアーチ形の大石門は創建当時のものといわれ、六文銭が彫刻されている。

本堂の裏手には、幸隆夫妻と昌幸の墓(写真中央が幸隆、左が夫人、右が昌幸)がある。


  


13. 海野宿  長野県東部町本海野

この辺りは海野氏の本拠地だったが海野平の合戦に敗れ海野氏は追われてしまう。
東信濃には旧街道の面影が各地に残っている。
古くは東山道が諏訪あるいは松本方面から上田付近の国府に達していたし、中山道は小県南部と北佐久地方を横断している。追分で別れた北国街道(善光寺街道)は千曲川沿いに北上し越後、佐渡、北陸に通じた。中山道と北国街道の道筋は戦国期にも重要な路線であった。江戸時代には街道の整備がなされた宿場が発達する。その面影は北国街道では小諸宿、上田宿などによく跡をとどめているが中でもここ海野宿は木曽路と並んで歴史的建物群がよく保存されていることで名高い。



14. 白鳥神社(海野)  長野県東部町本海野

白鳥神社は海野一族の氏神だったといい、真田氏も尊崇した。
のちの信之は松代転封の折、白鳥神社を松代へ勧請している。この付近は木曽義仲挙兵の地といわれ戦略的にも重要なところであった。



15. 平井城跡  群馬県藤岡市

海野平の合戦に敗れた海野氏の棟梁海野綱は東信濃の地を捨て上野国、上杉憲政を頼ってその救援を願った。平井城はその関東管領上杉憲政の居城。上杉憲政は海野氏の失地回復をはかるべく兵を率いて海野に向かったが、この時既に武田・村上両軍は撤兵の後であった。そこで長窪まで出陣していた諏訪頼重としばらく対陣したが、頼重の巧妙な交渉で和談となり、上杉憲政勢は軍を進めず関東へ帰国してしまった。このため海野氏の故国還住の望みはついえ、海野宗家は没落する。
その11年後、今後はその上杉憲政が小田原の北条氏康に敗れ、越後の上杉謙信を頼ってきた。憲政はそののち上杉謙信亡き後の家督争い(御館の乱)に巻き込まれ、和議仲裁のため春日山城へ向かう途中、四ツ屋(上越市)で上杉景勝の兵に斬殺された。



16. 海の口城跡  長野県南牧村海の口大芝

信玄が父信虎に従って初陣に臨んだ城。
天文5年11月21日、信虎は甲府を発って信州に出陣した。
この海の口という城を8千の兵で34日間包囲して攻めたが城の守りは堅く、折からの大雪となり年末にもなったので信虎は力攻めを諦め退却することにした。その時、信玄は、わずか300の兵でしんがりを勤めたいと申し出て、30里ほど引いた後、油断していた海の口城へ取って返してあっという間にこれを落城させた。この時、信玄16歳であったという。



17. 上田原合戦  長野県上田市上田原

武田家の軍学書「甲陽軍鑑」によると幸隆は「1546年、武田信玄側近との合議に参画」とある。信玄の勢いをいち早く見抜いた幸隆は武田氏に従属する。それまでに諏訪、伊那、佐久地方をほぼ平定し終えた信玄は北信地方への進出を企て、村上義清討伐を決意する。1548年、武田軍5,000は、大門峠から坂城町に向けて出陣し、上田原の村上義清勢2,000に対した。武田方は板垣信方を先鋒とし、馬場信春を左の備え、幸隆を右の備えに当たらせた。合戦は下之城から上田原付近で行われ、激戦が展開、白兵戦となった。この戦いで村上方は雨宮刑部ら3百余人が戦死したが、武田方は板垣信方・甘利虎泰の両「職」をはじめ3千余名が亡くなり全滅の憂き目をみるほどの大敗北を負った。

馬場信春・・・「一国の太守の器量」と信玄にたたえられ信虎・信玄・勝頼の三代に仕えた重臣で「武田の四名臣」の一人。武田騎馬隊の統率者でもあり、後年「井伊の赤備え」といわれた武田の遺臣はこの馬場信春の家来だった者が多い。


  
                         信玄の軍用道路「信玄道」

18. 板垣信方の墓  長野県上田市下之条

信虎・信玄二代に仕えた武田家譜代の重臣。政治機構の最高官「職」に任じ、信玄のよき補佐役として重責を果たした。
信虎は信方を高く評価。信玄の守り役に推挙し、信玄の武将教育に大きく貢献した。信虎追放事件では無血のうちに国主交代劇を実現させた原動力となり、主従の信頼関係は深く、信玄の師と慕われた。諏訪郡代として信玄の佐久、伊那、北信経略の推進役となり、上田原合戦では先鋒を担ったが、村上軍の猛攻に敗退し戦死。
尚、幕末、土佐藩兵を率い甲斐甲府城を攻めることとなった乾退助に容堂は「そちの先祖は甲斐の出身だという。ならばこの際、武田の勇将だった板垣の名を貰い、板垣と改姓しろ」と奨め、退助はそれに従い「板垣」と改めたという。

  


19. 雨宮刑部の墓  長野県上田市上田原

雨宮刑部は信濃の豪族として村上義清とともに上田原に出陣した。村上方の武将では刑部の他、屋代源吾・小島権兵衛も討ち死にする。この周辺には上田原合戦の犠牲となった両軍兵士の墓が点在する。「無名戦士の墓」は附近水田畦に散在していた兵士の墓を一ヵ所に集め、弔ったもの。この合戦で命を落とした者は両軍合わせて4千人を超えたという。

  
雨宮刑部の墓                    無名戦士の墓


20. 砥(戸)石城跡  長野県上田市上野・住吉

上田原敗戦の処理と地盤固めを約一年がかりで済ませた信玄は1551年5月、村上義清との雌雄を決すべく大軍を率い村上氏の要衛砥石城に向かった。軍議、偵察を重ね慎重に攻撃すること1ヵ月であったが、城はついに落ちず、退却する武田のしんがり軍に村上勢は果敢な攻撃をしかけた。
武田軍は1千とも5千ともいわれる戦死者を出し敗退、信玄2回目の大敗北であった。(これを砥石崩れという)
幸隆はこの合戦でも常に先頭に立って戦った。砥石攻めの前に信玄は戦いに勝った時の宛行(あてがい)状を幸隆に宛てている。これにより幸隆は村上氏の内部切り崩し工作に取りかかり、翌年みごとに成功、砥石城は一夜にして陥落した。
この砥石城攻略の快挙は真田氏にとって二つの大きな意義を持っていた。一つは宿敵・村上氏を敗り、本拠地真田を奪還し、上田を含む小県の地の経営を信玄に保障されたこと。もう一つは武田配下としての地位を確立し、以後の伸展に大きく役立つようになったことである。
幸隆は上田盆地の中央へ進出する手がかりをつかみ、以後この砥石城を本城として勢いを延ばしてゆく。

砥石城・・・本城を中心に枡形城、砥石城、米山(こめやま)城と合わせて4ヵ所に構成されている連郭式の山城で難攻不落を誇った。米山城は兵糧を貯蔵していた城といわれ、有名な白米城伝説(信玄は砥石城を攻め、生命線ともいうべき水の手を断った。しかし、村上軍はこの山の上で白米を馬の背に流して洗うふりをし、遠目には水がいくらでもあるように見せかけた。こうして武田勢を油断させ村上義清は城を捨てて落ちのびていったという)がある。今でも少し地面を掘れば兵糧として焼いた米が出るという。
徳川の上田攻め(第一次)の時には信幸がこの砥石城から出陣し徳川勢に奇襲をかける。それから15年後の1600年、攻め寄せる徳川秀忠軍に備えて、幸村が700名の兵を率いてこの城で待機する。だが徳川の先鋒として現れたのは、兄信幸だった。幸村は兄弟の戦いを避け、この城を捨てて上田城に引き上げた。


  
                  左 米山城、右 砥石城

21. 葛尾(かつらお)城跡
  長野県埴科郡坂城町

幸隆の砥石城攻略により村上義清の拠点の一角を崩した信玄は、義清との直接対決を避け、周辺部の属城を次々に落とし、次第に綱を絞る作戦をとった。幸隆は引き続き村上氏内部の切り崩しに奔走。こうした幸隆の働きと信玄の武力示威の動きは村上氏内部の諸将に大きな動揺を与え、次第に武田方につく者が多くなってきた。
1553年4月、ついに村上義清は居城葛尾城を捨て、越後の上杉謙信に救援を求めるに至った。
葛尾城は信玄を2度敗った男、村上義清の居城。千曲川に突き出た尾根の上にあり、険しい山城である。
村上義清は信濃帰還を切望したが、かなわず1573年、根知城(糸魚川市)で死去した。73歳と伝えられる。葛尾城は義清が没落してからも長い間使われた。
葛尾城最後の史料として慶長5年(1600年)、徳川方の森忠政の籠もるこの城に昌幸の命を受けた幸村率いる真田勢が二の丸まで攻め込んできたことが詳しく記されている。
関ヶ原の合戦以後、この地方では山城を舞台とする戦闘は行われなくなる。これ以降、葛尾城はほとんど使われなくなったと思われる。


  
                        葛尾城跡


22. 満泉寺  長野県埴科郡坂城町

葛尾城の麓にある。満泉寺は村上氏の居館跡で、今も堀、土塁の一部がわずかながら残っている。この近くには坂木の代官や義清の子孫らが協同で建てたという村上義清の供養塔もある。

  
                        
村上義清供養塔

23. 笄(こうがい)の渡し
  長野県埴科郡坂城町苅屋原

千曲川の「渡し」で坂城町苅屋原と上山田町力石との間を結ぶ。口碑によると葛尾城が陥落し、敗走の混乱の中、夫と別れ別れに城を後にした義清夫人は数人の腰元を従えて着のみ着のまま暗い山道を下っていった。千曲川川辺に来た義清夫人たちは、村上氏の支城である対岸、上山田の荒砥城へ逃れようと舟と船頭を探して訳を話したところ、船頭は快く引き受けて無事向こう岸の力石に着くことができた。夫人は、我が身の危険を顧みず、舟を出してくれた船頭に心打たれ、お礼として髪にさしていた笄を手渡した。村人たちはその義清夫人を偲んで、この渡しを「笄の渡し」と呼ぶようになったという。
現在、この渡し跡は国道18号に面し、ミニ公園となっていて、ノロシを上げたとされる自在山もきれいに眺めることができる。


  
                              自在山

24. 荒砥城跡
  長野県千曲市上山田

荒砥城は村上氏の一族である山田氏によって築かれた城で郭が連なるように並んでいるところから連郭式山城と呼ばれ、千曲川対岸の葛尾城の支城的役割を果たしていた。葛尾城落城とともに荒砥城も城主を失い、山田氏は亡んだ。武田氏滅亡、本能寺の変を経て、その後、荒砥城は上杉景勝の治める城となるが、上杉方海津城の副将であった屋代秀正は密かに家康の家臣、酒井忠次に通じて上杉に背き、海津城を出てここ荒砥城に籠もった。1584年、上杉軍に攻められた荒砥城は落城し廃城となり、城としての役割を終える。
屋代秀正は、その時夜陰に紛れて遁走し、のちに徳川に仕え、重臣となった。
戸倉上山田温泉を眼下に見下ろすことができるここ荒砥城跡は現在、千曲市城山史跡公園として甦り、館、兵舎、やぐらなどが建ち並び、我々を戦国時代へと誘ってくれる。


  

25. 塩田城跡  長野県上田市前山

1553年8月、信玄は名実共に村上氏最後の拠点である塩田城を攻撃する。詳細は分からないが信玄はこの時、女、子供に至るまで生捕りにしたと記録に書いている。
村上義清は塩田城から逃走、上杉謙信を頼って落ちのびていった。この戦いで村上氏は完全に失墜し、東信地方は武田の掌中に帰した。
塩田城は鎌倉末期に北条義政によって築かれ、南北朝期に入り、足利氏が村上氏に与えた。信玄は第一次川中島合戦の折りにはここに本陣を構えた。武田家滅亡後は昌幸の属城となり、上田城完成とともに廃城となった。
現在はアジサイの花が有名で、「信州の鎌倉」の一角として散策コースの一つに入っている。



26. 坂木宿ふるさと歴史館
  長野県埴科郡坂城町坂城

1階は川中島合戦図屏風をはじめ、信濃村上氏、村上義清関係の展示品を備え、2階には坂木村の宿場指定を示す朱印状など北国街道に関する資料を展示する歴史展示施設。


27. 別所温泉
  長野県上田市別所温泉

「真田の隠し湯」として角間温泉とともに名高い別所温泉は信州で最も古い温泉地として賑わう。旅館の他に外湯といわれる4か所の共同浴場があり、その中の一つ「石湯」の前には池波正太郎揮毫の「真田幸村公隠しの湯」の石碑がある。「真田太平記」には度々登場する別所温泉だが、武将たちがどの程度利用したのかはよく分からない。


28. 川中島古戦場跡(八幡原史跡公園)
  長野県長野市小島田町

信玄の村上氏攻略と北信濃侵攻は、上杉謙信との対立抗争に発展していった。「川中島の合戦」の幕明けである。
12年にわたり5度の対陣となった川中島の合戦。特に有名な永禄4年(1561年)の4回目の合戦は武田軍2万、上杉軍1万3千がぶつかり合う、信玄41歳、謙信32歳の時であった。
妻女山に大挙して布陣する上杉軍に対し、武田軍は当初「雨宮の渡し」に布陣、全軍を二手に分け、一隊が妻女山の裏手から夜襲し、一隊が八幡原(はちまんばら)に陣取って上杉軍の退路を断つという山本勘助の「キツツキ戦法」を採用した。しかし、謙信は武田軍の拠城海津城から炊事の煙が盛んに上がるのを目にし、この戦法を察知。先回りして八幡原の武田本陣を急襲する作戦を敢行する。早朝、霧が晴れると同時に上杉軍は雨宮の渡しを越え、ここ八幡原に殺到、白兵戦が展開された。武田軍は慌てふためき信玄の弟、信繁、山本勘助ら多くの重臣が戦死した。が、その時、妻女山夜襲隊が急遽山を降り、総崩れになりかけていた武田軍は陣容を立て直し、逆に上杉軍を圧倒し始めた。謙信が信玄に太刀を浴びせ、信玄が軍配でこれを受け止めたなどという様々な伝説が生まれたのはこの時である。午後3時頃には大勢は決し上杉軍はその日のうちに越後に引き上げて行った。
数度の川中島の戦いののち、信玄は北信濃をほぼ制圧。
信濃一国は武田が領有することとなり、謙信は奥信濃の一部と野尻湖方面を勢力下に保ったに過ぎず、頼ってきた村上義清らを信濃に帰国させることはできなかった。
この激戦には幸隆も嫡子、信綱とともに参戦している。
「甲陽軍鑑」によれば、幸隆父子は上杉の本陣のあった妻女山攻めの一隊に加わり、人質として当時甲府に出任していた三男、昌幸も信玄の小姓として参戦していたという。


  


29. 妻女山
  長野県長野市

永禄4年(1561年)8月、謙信は13,000の大軍を率いて春日山城を発し、ここ妻女山に布軍、海津城の信玄に対した。十日間、にらみ合いは続き、9月9日の深夜、ついに信玄は行動を起こした、が、謙信はこの動きを事前に察知、勇士100名をここ妻女山に残し、全軍を八幡原に突進させた。ここ妻女山からは今でも信玄の拠城海津城が一望できる。山頂には招魂社、登り口には、謙信槍尻之泉の碑がある。

  


30. 会津比売神社
  長野県長野市

妻女山の麓にある。謙信がここ会津比売神社に詣でて必勝を祈願した際、境内の松に愛馬の鞍をかけたといわれる場所があり、そこに碑が建っている。


31. 山本勘助の墓
  長野県長野市

武田信玄の頭脳、知恵袋として名高い山本勘助晴幸は1542年、信玄の重臣、板垣信方の推挙で武田の家臣になったという。勘助は三河国出身で諸国を歴遊、情報通で兵術、槍術、天文にも優れ、城取り、陣取り、城造りの名人であった。川中島一番の激戦(4回目)の時、自ら考案した「キツツキ戦法」が謙信に見抜かれ、その責を負ってか手兵200余を率いて越軍のただ中に斬り込み、86ヵ所の手疵を負うという大奮戦の末、この付近の川堤にて自害して果てたと伝えられる。
幸隆はこの勘助の推挙により信玄に仕えることができた。


32. 武田信繁の墓(典厩寺)  長野県長野市篠の井杵渕

この寺は創建当時(1500年頃)、鶴巣寺と称していた。
永禄4年川中島合戦の時、信玄の弟、典厩信繁はここに本陣を構え、出陣し、激闘の末戦死した(37歳)。遺骸(胴体)はこの地に埋葬され弔われた。その後、初代松代藩主になった真田信之が、信繁の名にちなんで寺の名前を典厩寺(てんきゅうじ)と改め、真田家の武家寺として寺は発展していった。
武田信繁は武田軍の副将で信玄の片腕として活躍し、まれにみる名将であったという。特に騎馬戦に力を注ぎ、より強力なものとした。学問にも秀いで家臣からの信頼も厚かった。このような信繁を父、信虎は幼少の頃から可愛がり、跡目相続を考えていた。だが、信繁は兄弟の道を外すようなことはせず、兄、信玄によく協力し仕えたという。
尚、真田幸村の本名は真田信繁であるが、この典厩信繁の武勇にあやかって「信繁」と名づけられた。
この寺には信繁の墓の他に川中島合戦の資料館、信繁首洗いの井戸、それと日本一大きいことで有名な閻魔大王像(川中島戦死者6,000余名を供養したもの)などがある。


  


33. 武田信繁の墓(首級)
  長野県小諸市

川中島で戦死した信繁の『首』は最後まで信繁のそばで奪戦した忠臣、山寺左五衛門らによってこの地に埋葬された。
川中島が大激戦地であったため首級を収める場所がなく、山寺は胴体のみを埋め(現在の典厩寺墓所)、首級は幌で包み、小諸に向かったという。
当時、小諸は信繁の嫡男、信豊が城主として治めていた地であった。
小諸に着いた山寺は信豊の家臣等と相談し領内のこの地を選び、あり合わせの陣鍋で首級を覆い、葬ったといわれている。
当時の墓碑は寛保の千曲川大洪水で流失した。現在の墓碑は明治20年に再建されたものである。



34. 松代城(海津城)跡
  長野県長野市松代町

松代城は1560年頃、信玄が謙信との戦いに備え、前衛基地として山本勘助に命じ築いた城で、当時は海津城といわれた(城代は高坂弾正忠昌信)。築城当時は石垣の下(城の北側)を千曲川が流れる要害の地であった。
武田が亡んだ後、織田信長は家臣の森長可を城主とした。その信長亡き後は上杉景勝が占領、第一次上田合戦の折りには幸村が人質としてここに送られた。その後、豊臣政権の時には田丸氏、徳川時代には森忠政(森長可の弟)・松平忠輝・酒井忠勝と城主はめまぐるしく変わり、1622年、真田信之が4万石加増のもと上田から松代に入城した。
額面からいえば栄転であったが、真田を嫌う二代将軍秀忠と当時の実力者・酒井忠勝が信之の実力を削ぐための移封であった(実質の石高は上田が18万石、松代が8万石だった)。近年、やぐら、門、石垣が復元、整備された。
春は桜の名所として賑わう。 


  



35. 高坂弾正忠昌信の墓(明徳寺)
  長野県長野市松代町

石和の大百姓、春日大隅の子として生まれ、初名を源助といった。16歳の時、信玄に認められ近習小姓に召され、使番衆を経て1552年、150騎の侍大将に抜擢された。のち海津城代として川中島地方の経営に当たり、永禄4年の川中島合戦では妻女山攻撃隊の総指揮官として活躍した。1572年、三方ヶ原の戦いでは諸将が浜松城強攻論を唱えたがそれに反対し、信玄に思いとどまらせた。
長篠の合戦の時は、上杉勢に備え北信濃を固めていたため武田家重臣の中で唯一生き残った。
1578年、海津城内で病没、当寺に葬られる。
この高坂弾正、一説には男色を好む信玄の『愛人』だったという。


  

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