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「真田一族の歴史がよぉ〜くわかる本」 関東甲信越編

第9章 徳川への帰属と名胡桃城事件




105. 小田原城  神奈川県小田原市

1585年7月、秀吉は従一位・関白に叙せられた。秀吉は政権の安定を図るため、しきりに家康の歓心を買い、上洛を促す。
翌1586年1月、織田信長の二男、信雄の仲介により2人は和解。
10月には家康が上洛し、秀吉に臣下の礼をとり服属、秀吉の天下統一事業は前進する。同年11月、秀吉は関東の大名、領主に私戦停止令というべき「関東惣無事の儀」を発した。
この通達は北条氏に大きな衝撃を与える。沼田領をめぐる真田との抗争が私戦とみなされたのである。
1587年3月、昌幸は秀吉に命じられ家康の許へ出仕、和解させられた。権力者、秀吉の前で真田は小さい存在でしかなかった。
同年5月、秀吉は島津を討って九州を平定すると、12月には二度目の惣無事令(関東、奥州惣無事令)を発し、より強圧的に戦闘の停止を迫る。ほぼ全国を掌握したかに見えた秀吉だが、小田原の北条氏政・氏直父子だけは秀吉になびかず上洛しない。そして上洛と引換えに沼田領を真田から引渡すよう交換条件を出して譲らなかった。これに対し秀吉は1589年7月、昌幸を説得して沼田城を含む沼田領のおよそ3分の2を北条に渡し、名胡桃、岩櫃など残り3分の1の吾妻郡を昌幸に残し、昌幸には代替地として、信州伊那郡箕輪の地、一万二千石を与える裁断を下した。北条氏政はこれを受け入れ自らの上洛出仕を誓約、沼田城には鉢形城主、北条氏邦の重臣、猪俣邦憲(憲直)を入れた。
こうしてさまざまな矛盾をはらんだ沼田領問題は一応収束するかのように思われたが・・・・


106. 織田信雄の墓(崇福寺)  群馬県甘楽郡甘楽町小幡
                                               
織田信雄の墓
織田信雄(のぶかつ)は信長の二男。本能寺の変後、清州城百万石の領主となる。のち秀吉と争い所領を失う。大坂夏の陣後の1615年、家康から大和国松山、上野国小幡等を与えられ5万石の領主となる。1630年没、73歳。遺骸は京都大徳寺に葬られ、小幡宝積寺(ほうしゃくじ)、大和室生寺に分骨される。小幡織田氏はのち三代信昌が祖父信雄の遺命により松山3万石を叔父織田高長に譲り、小幡2万石のみの領主となる。1767年、家老、吉田玄蕃が山県大弐と親交があったという理由で出羽高畠2万石に移封される(明和事件)まで八代、152年間、上野国小幡藩主であった。

崇福寺・・・小幡の町から奥まった所にある宝積寺は旧領主、小幡氏の菩提寺で格式も高かった。織田氏も三代までこの寺を菩提寺としていた。しかし四代信久は急に廃寺であった崇福寺を3年間で改築、臨済宗に改め菩提寺とする。そして宝積寺から先三代の墓石もここに移す。
その後、1758年焼失。再建後の明治4年、失火により再度全焼した。墓石の破損はこの時生じたものといわれる。この墓前の畑が寺跡であり、当時は廻廊が墓に達し、墓石には1箇ずつ上屋が付いていたという。
今、入口には下馬の碑が、また石段上には高遠の石工による三石一宮造の優れた石殿が残されている。

   
                      寺跡


107. 小松姫(稲姫)の墓
  群馬県沼田市正覚寺

上田城攻撃の再機会をうかがっていた徳川軍は、秀吉の取りなしによって信濃から去った。家康を屈服させた秀吉は、昌幸にあれほぼ反りの合わなかった家康への帰属を命じる。そして昌幸は秀吉から上洛を促され、その途中の1587年3月、信幸を伴い駿府城に立ち寄り家康と会見した。
この席上、信幸の家康への出仕が決まり、さらに本多忠勝の娘、小松姫を家康の養女として信幸に嫁がせることとなった。「我が家臣にあらず、我が友である」と家康に言わせ、「家康にすぎたるものが二つあり。唐の頭に本多平八」と天下にうたわれた本多忠勝は徳川のいわゆる『名物』であった。
のち昌幸・幸村が下野国犬伏で信幸と袂を分かち、上田に帰城する途中、沼田城に立ち寄るが、小松姫は武装して入場を拒んだ。どうしても、と言うなら一戦を交える、という勢いに昌幸は納得、ここ「正覚寺」で一泊し、上田に引き上げた。この時、幸村は腹いせに沼田城下に火をかけようとしたが、昌幸にたしなめられる。昌幸は城主、信幸の留守に沼田を乗っ取ろうとしたのか、その心意は定かではないが、「さすがは本田忠勝の娘。武家の妻女はこうあるべき」と感嘆したという。
小松姫は沼田に居ること26年、領民にも優しかったようで、自己の化粧料とされていた後閑村では後閑山に対する大きな特権を与えられ、農民はその恩恵に浴してきた。
毎年9月5日は正覚寺の大法要が営まれるが、後閑村の代表が参列し、小松姫が亡くなって380年余の歳月を経てもなおその遺徳を偲ぶ村の姿がある。
尚、小松姫を演じた紺野美沙子さんが、大河ドラマ「真田太平記」の収録録前にここ正覚寺を訪れ、姫の墓参りをしたという。


  
             NHK大河ドラマ「真田太平記」より


108. 名胡桃城跡  群馬県利根郡みなかみ町

決着したかに見えた沼田領問題だが、秀吉の裁定は北条方に大きな不満を与えた。上州の全部が手に入ったわけではなく、昌幸に残された名胡桃城は北条領とされた中に何故か真田領として置かれ、沼田城からわずか5kmの地にあり、北条にとっては非常に目障りな存在であった。
そして秀吉の裁定からわずか3ヵ月後の1589年10月、北条方の沼田城代、猪俣邦憲(憲直)はこの裁定を無視するように突如として名胡桃城に侵攻し、城を奪い取ってしまった。
昌幸はこの不法を家康や秀吉に訴え、怒った秀吉はこれを契機に北条討伐を決意、翌1590年2月、22万ともいえる大軍を発して小田原攻めにかかる。
名胡桃落城については次のようなエピソードが伝えられている。
名胡桃城には城代、鈴木主水がいたが、北条方は内通者(中山九兵衛実光)と謀って、主水に昌幸が書いたような偽書を見せて、上田城へ赴かせた。主水が途中、岩櫃城に寄ったところ城代、矢沢頼綱はそんな事実はない、と断言。欺かれたと知った主水は急ぎ名胡桃に戻ったが、既に城は北条方に乗っ取られていた。そして不覚を恥じた主水は沼田城下の正覚寺で切腹し果ててしまう。
『名胡桃城事件』はいつまでも上洛を引き伸ばして約束を果たさない北条氏政・氏直父子を陥れるため、秀吉が巧妙に仕組んだワナともいわれている。また昌幸はそれを承知の上で鈴木主水を見殺しにした、と説く人もいる。真相は不明であるが、いずれにしても鈴木主水という武将が犠牲になって、秀吉の北条征伐が実現したことは確かである。
名胡桃城は利根川と赤谷川が合流する南西の段丘上舌状台地に築かれた丘山城で、小規模ながら堅固な構えである。現在、国道17号により城跡は分断されているが、『秀吉の天下統一のきっかけとなった城』としてかつても遺構を残し、群馬県指定史跡に定められている。
本郭の中央には徳富蘇峰書による「名胡桃城址之碑」も建っている。

  
                        名胡桃城址之碑

109. 鈴木主水の墓
  群馬県沼田市正覚寺

鈴木主水のものと伝えられる墓は小松姫と同じ「正覚寺」にある。小松姫の墓とわずか5〜6mくらいしか離れていない。数年前までこの墓には「鈴木主水の墓」として案内柱が建てられていたが、主水とは全く関係ない被差別者階級の人のものではないか?と説く人もいる関係からか、現在ではその案内柱は取り外されている。
鈴木主水は歴戦の勇士で、もとは沼田氏の配下にあったという。沼田城が真田に攻略された後も領地を従来どおり自分に任せてくれた昌幸の信頼に応え、両家は深い絆で結ばれていたというが、名胡桃落城の責任を負って、ここ正覚寺で切腹してしまう。

  
     中央が主水の墓?                NHK大河ドラマ「真田太平記」より



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110. 鈴木右近(小太郎)の墓
  長野県長野市松代町法泉寺

名胡桃城主、鈴木主水の遺子。「真田太平記」によれば、小太郎と呼ばれた幼少には白豪子(白うさぎ)といわれ、真田父子に可愛がられた。名胡桃が北条勢に奪われ、父が自決してからは信幸の家臣となる。長く伏見屋敷の留守居役を務めるなど股肱の臣として生涯を通し、信之に仕え、信之が93歳で没した時、殉死した。享年85歳。
尚、鈴木右近の墓があるここ法泉寺は、ツツジの名所として親しまれている。

  
              NHK大河ドラマ「真田太平記」より


111. 中山城跡
  群馬県吾妻郡高山村中山字城内

上州吾妻郡にある中山城は岩櫃城と沼田城のほぼ中間にある城で北条氏が支配していた。この辺りの北条軍の基地ともいえるこの城は、かつては中山安芸守が城主だったが、安芸守の長男、中山九兵衛実光が城主だった時に北条勢が攻略した。安芸守の娘、栄子は名胡桃城主、鈴木主水に嫁いでおり、城を奪われた九兵衛は義兄、鈴木主水を頼り、名胡桃城に身を寄せていた。しかし、秀吉の計略?による名胡桃城襲撃の折りには北条方に内通し、北条軍を名胡桃城内へ引き入れてしまう。


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