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「真田一族の歴史がよぉ〜くわかる本」 関東甲信越編

第10章 真田父子、小田原征伐に参戦
松井田城〜小田原城



112. 碓氷峠・熊の平  群馬県碓氷郡松井田町

1590年正月、秀吉は自ら画策?した名胡桃事件をきっかけに、小田原の北条氏政・氏直父子を討つため諸国大名に軍令を発する。2月20日、金沢を進発した前田利家(1万8千)は越後の上杉景勝軍(1万)と信濃で合流し、さらに小諸の依田康国(4千)、真田昌幸(3千)が加わった北国軍総勢3万5千が、上州から武蔵の北条方属城を攻め落すことになった。
昌幸・信幸・幸村(以下真田父子という)は、碓氷峠の「熊の平」に陣を構え、後続の前田・上杉軍の到着を待つことにした。北国勢が先ず目指すのは峠から14kmほど下がった北条方の松井田城である。
ここ碓氷峠(旧道)は明治時代から続いた旧信越本線の面影を随所に留めている。レンガ造りの鉄橋やトンネル、倉庫などが保存され、「鉄道文化むら」という鉄道ファンが集う場もできた。
また野生の猿が生息することでも有名で、一匹にエサを与えると、たくさんの猿が山々から下りてきて群がってくる。

  


113. 松井田城  群馬県碓氷郡松井田町高梨子

前田利家を総大将とする昌幸たち北国勢の最初の敵は、松井田城の大道寺政繁であった。大道寺氏の兵力はおよそ1,500。そのうち1千ほどで松井田城を守備していた。
碓氷峠を舞台に大道寺軍と北国勢の戦いは3月中旬から始まるが、4月20日に大道寺政繁は降伏。前田利家はその大道寺政繁を伴って、小田原対陣中の秀吉に復命した。秀吉は一旦は政繁を許し、利家に河(川)越城の接収と鉢形城の攻撃を命じたので、利家は政繁を案内人に立てて上野、武蔵を転戦することになる。松井田城陥落を知った上野、武蔵の北条氏諸城は雪崩をうって開城し、4月末までには白井城、厩橋(前橋)城、箕輪城、5月初めまでには松山城、河越城が次々と陥落していった。秀吉が助命を確約したはずの大道寺政繁であったが7月5日、政繁は北条氏政・氏照らとともに切腹を命ぜられてしまう。そして違約を恥じた利家は政繁の子、直繁を召し抱え、自分の二男、利政の家臣とし、能登の地3千3百石を与える(のち大道寺直繁は尾張徳川家に2千石で仕えた)。
松井田城は当時、北条氏が関東を守る最も重要な拠点とした城で、直径2km、幅1kmに及ぶ広大な城郭をもち、海抜400mの尾根の中心に本丸と二の丸を構え、そこから尾根や谷間を利用し、クモの足のような大小の曲輪が八方に伸びていた。

  
                     大手口あたり


114. ちょっと寄り道A 喫茶・離山房(りざんぼう)  
長野県軽井沢町

群馬県と長野県の県境、碓氷峠の頂上から西へ数キロ、国道18号線、塩沢交差点そばにある喫茶店。店名の『離山』とは「はなれやま」というこの辺りの地名に由来するという。ここはビートルズの故ジョン・レノンが妻ヨーコ、一人息子ショーンと足繁く通った喫茶店である。
ジョンは1970年代からほぼ毎年、軽井沢を訪れ、定宿とした「万平ホテル」に泊った。軽井沢ではパン屋や本屋にも気軽に出掛け、彼を見つけたある歌手が「ジョ〜ン!」と呼びかけると、気さくに手を振って応えてくれたという。
ジョン一家は自転車でホテルから塩沢湖に遊びに向かう途中、きまってここ離山房に立ち寄った。よくメニューにない注文をしては店のママさんを困らせたという。ジョンたちは店内より、離れの東屋を好んで利用した。その傍にある木の幹でジョンは息子ショーンの背比べをし、子供の成長を楽しんでいたという。その時、ジョンが頼み、ママさんが打ちつけた釘が30年近く経った今も残っている。
数年前、ヨーコが久々に一人で訪れたという。当時、ジョンが店に置き忘れていったライターをママさんがヨーコに渡した時のお礼の手紙が店の壁に何げなく飾られていた。ひっそりとした店内にはジョンの曲が遠慮がちにかけられ、ここが『ジョン・レノンなじみの喫茶店』と知らないで来ている人もいるのかもしれない。静かで落ち着きのある雰囲気の漂う店である。

  
東屋                         背比べの木





■ ■ ■




115. 箕輪城攻め  群馬県高崎市箕郷町西明屋字城山

北国勢の真田父子はついで上野箕輪城攻めに移り、松井田城陥落4日後の4月24日にはこれを攻略、秀吉にその旨を報告している。これに応え秀吉は4月29日、石田三成を使者として昌幸の許に派遣し、箕輪城の仕置等を指図している。その内容の中で注目すべきは、土民、百姓を故郷へ帰り住ませる事、東国の習として行われていた女子の売買を禁じる、という事があり、こうした中からも秀吉の近世統一国家への志向を伺い知ることができ興味深い。


116. 河(川)越城跡  
埼玉県川越市郭町2丁目

川越城は扇谷(おおぎがやつ)上杉持朝が1457年に家臣の太田道真・道灌父子に命じて築城させたものであり、上杉氏六代、及び北条氏四代の持城であった。当時の規模はのちの本丸、二の丸を合わせた程度と推定されている。1590年5月初旬、前田利家らに攻められ落城した後は、関東に入った家康が江戸の北を守る重要拠点として酒井氏を配置し、その後も幕府の要職にある大名が藩主に任ぜられた。
1639年、川越藩主となった松平信綱は城の本格的な拡張、整備を行う。川越城は本丸、二の丸、三の丸等の各曲輪、4つのやぐら、13の門からなり、総面積が9万8千坪余りの規模を持つ城郭となった。
川越城本丸御殿は1848年に時の藩主、松平斉典が造営したもので、当初16棟、1,025坪の規模を誇っていた。現在は玄関、広間部分と移築復元された家老詰所を残すのみであるが、日本国内でも御殿建築が現存する例は極めて少なく貴重である。
「日本100名城」の一つでもある。

  
                           本丸御殿


117. 川越城富士見やぐら跡
  埼玉県川越市郭町2丁目

御嶽神社が祀られているこの高台は、かつて川越城の富士見やぐらが建てられていた所である。天守閣のなかった川越城には東北の隅に二重の虎やぐら、本丸の北に菱やぐら、西南の隅に三層の富士見やぐらがあって、城の中で一番高い所にあった富士見やぐらが天守閣の代わりとなっていたようである。
今日では木々や建物のため、すっかり眺望は失われてしまったが、往時はこの高台に立てば、その名の通り、遠く富士山までも望めたと思われる。この富士見やぐらの正確な規模は分からないが1866年に川越城を測量した時の記録によれば、長さ15m、横14mあったという。
明治維新以後、川越城は次第に解体され、堀は埋められ、土塁は壊され、大部分は住宅地や学校、公園となった。
現在、川越城を偲ぶものは、この富士見やぐらの跡と、本丸御殿の一部を残すのみ、となってしまっている。


118. 岩付(槻)城跡  埼玉県岩槻市岩槻公園

前田利家らの北国勢に呼応して、南からは浅野長政の率いる軍勢が関東に侵入し、4月21日には玉縄城を、5月半ばまでには江戸城、佐倉城など相模、南武蔵と下総南部の諸城を攻め落とした。これによって北条方は開戦2ヵ月足らずにして、支城の戦力のほとんどを失ってしまった。
そんな中、鉢形城の北条氏邦は残った岩付、鉢形、八王子、忍、津久井など主要な諸城に籠る城兵の助命を秀吉に願い出るが聞き入れられない。
そして5月半ば過ぎ、秀吉は残った諸城の攻略を「武蔵国岩付城、要害堅固の由、しからばよき城より先ず攻め崩すべし」として岩付城から開始する。岩付城は城主、氏房(氏直の弟)が小田原に籠城していたため、重臣、伊達房実が指揮をとり、守りを固めていた。しかし5月20日、浅野長政と木村一を主力に、徳川の武将である本多忠勝・鳥居元忠・平岩親吉らを加えた2万余騎の軍勢から総攻撃を受けると、たった一日(二日?)で落ち、開城してしまった。武蔵東部の拠点、岩付城の開城は北条氏に大きな衝撃を与えた。破竹の勢いで関東諸城を攻略した秀吉は、今後はその勢力を関東屈指の平山城として名高い鉢形城に集中しはじめる。
岩付城は室町時代に築かれた城郭で、築城者については太田道灌、太田道真、のちの忍城主となる成田氏とする説など様々である。
1567年、それまで城を治めていた太田氏資が戦死すると、北条氏が直接支配することとなる。北条氏はそれまであった本丸、二の丸、三の丸など「主郭分」、その周辺を取り囲む「新正寺曲輪」の2つの区画の他に、秀吉との対決に備え、新たに「新曲輪」という区画を設け防衛力を強化していた。
この岩槻公園の辺りは、それらのうち「新曲輪」の部分にあたっており、大部分が埼玉県史跡に指定され、土塁、空堀、馬出し、堀障子など、当時の遺構が良好な状態で保存されている。
岩付城は落城後、家康が家臣、高力清英を入れ城主とした。
江戸時代になると川越城と同様、幕府要職の譜代大名の居城となり明治維新をむかえた。

  
岩付城跡                           岩付城城門


119. 岩付城裏門
  埼玉県岩槻市岩槻公園

この門は岩付城の城門で裏門と伝えられるが、城内での位置は明らかでない。記録によると1770年に修造され、1823年に修理されている。数少ない岩付城関係の現存遺構の中でも、建築年代の明確な遺構として貴重なものである。
この裏門は廃藩置県に伴う岩付城廃止後、民間に払い下げられたが、明治42年以降、この門を大切に保存してこられた市内の有山氏から岩槻市に寄贈され、昭和55年、岩付城跡のこの地に移築された。


120. 鉢形城開城
  埼玉県深谷市寄居町鉢形
                                                お万が淵
秀吉は鉢形城攻略に格別の意をもって臨んでいた。これを中国の毛利氏を服属させる途を開いた備中高松城攻めに匹敵する事柄と位置付け、鉢形城を落すことが、引いては北条氏全体を突き崩す鍵になると捉えていた。つまり北条氏領国における鉢形城と城主、氏邦の役割を高く評価していたのであり、それゆえに攻略を急いだといえる。こうして北武蔵の雄、北条氏邦の拠る鉢形城は1590年6月上旬、前田利家・上杉景勝・真田父子などの北国勢、並びに浅野長政・木村一・本多忠勝・鳥居元忠・平岩親吉らの諸将が加わって5万余にも膨れあがった大軍勢に攻囲されることになった。(この時、真田父子は鉢形城の北東を担っていた)
対する北条氏邦軍の総戦力は5千。このうち鉢形城に籠城したのは3千5百といわれるが、この中には「鉢形衆」と呼ばれた強力で統制のとれた黒備えの軍団の他に、多くの百姓、町人までもが含まれていた。氏邦配下の軍団は在郷の地待層を中心とする「半農半武士」の者たちであり、「兵農分離」の進んだ秀吉軍とはその様相を異にしていた。
前田・上杉を主体とする5万の兵に囲まれた鉢形城で、実際にどの程度の規模の戦闘が行われたのかは詳らかではない。
一説では、本多忠勝が車山山頂に28人持ちの大筒を据えて大手方面に砲撃を加えたといわれ、また落城寸前の状況を憂いた城中の多くの女人が、本曲輪の崖から荒川の「お万が淵」に飛び込み自害した、などと伝えられている。いずれにしても歴戦の闘将、北条氏邦といえども、5万余の軍勢を前にしては、もはや打つ手はなかったといえる。6月14日、もともと和平派だった氏邦は敵方となった義弟、藤田信吉の勧告によって降伏し、鉢形城を開城した。城を出た氏邦は近くの正龍寺に入り剃髪、謹慎する。
北武蔵から上野一帯の鉢形、倉賀野、深谷、前橋、箕輪、沼田の6城を管轄し、関東の太守、北条氏の一翼を担っていた氏邦だが、その引き際の無血開城は、のちの時代における氏邦の評価をよからぬものとした。城兵のみならず自らも助命されたため「前代未聞之比興者」と敵味方から罵倒されたが、氏邦の決断は多くの家臣、領民の生命を救う、という最も称賛されるべき成果を残したことだけは確かである。


121. 正龍寺
  埼玉県深谷市寄居町

鉢形城を出た北条氏邦は剃髪して義父、藤田家の菩提寺、正龍寺に入った。その後氏邦は秀吉の処置により前田利家に預けられ、加賀、能登に赴く。能登七尾で晩年を過ごした氏邦は1597年8月、彼の地で57歳の一生を終える。
現在、正龍寺境内の高台には4基の宝篋印塔が並び建っている。一基は遺骨を家臣が能登から持ち帰って埋葬したという氏邦の塔、その隣は氏邦が加賀に赴いた後、寺外に庵を結んで閑居し、その後1593年に自害したという氏邦室大福御前の塔(大福御前は鉢形城開城後、山賊に襲われ、一時農家の婢に売られていたという)、残る2基はその大福御前の実の父で北条氏に服属し、娘婿氏邦に藤田郷(鉢形城周辺や秩父郡)を与えた藤田康邦と同夫人のものである。
 
  

122. 八王子攻め
  東京都八王子市元八王子町3丁目

難攻不落を誇った鉢形城を開城させた前田・上杉らの北国勢であったが、開城までに2ヵ月を要した。秀吉からの褒詞はなく、それどころか手ぬるさを叱責され、かわって「両将は数多の城を陥れたとはいうものの、みな城兵から降伏したにすぎない。一両でも皆殺しか、踏み潰しておれば褒めてやるものを」と語った言葉が返ってきた。北国勢はその言葉に奮起し、次なる目標、北条氏照の八王子城には力攻めの総攻撃を仕掛ける。
1590年6月23日の早朝、北国勢は東方から八王子城へ押し寄せた。北条方全軍の指揮をする立場にある城主、北条氏照は城を家臣の横地監物、中山勘解由左衛門尉、近藤出羽守らに任せ、小田原城に入っており、ここにはいない。
北国勢の一隊は搦手から襲いかかり、朝もやの中で激戦が展開された。これまでの攻略と同様、先に降った北条方の武将を先導したので、八王子勢はたちまち要所を突き破られ、山の下陣を固めていた近藤出羽守は奮戦の末、討死した。
山の下陣を突破した北国勢は相次いで山を登りはじめたが、この時、城内にいたのは付近の農民を狩り集めた雑兵がほとんどであった。氏照は城兵の大半を小田原へ移し、代わりに農民に武器を持たせていたのである。
北国勢はこれら農民兵を難なく蹴散らしながら攻め登り、午前8時過ぎには山頂近くに達した。しかしここでの雑兵の抵抗は凄まじく、二の丸の攻めた北国勢は死傷者が続出、容易ならざる苦戦となった。そこで上杉軍は一隊を風上に迂回させ、城に火を放った。炎と黒煙で城方が混乱に陥ったところへ北国勢はどっと二の丸へ攻め入り、支え切れぬとみた二の丸の守将、狩野一庵、中山勘解由左衛門尉は本丸へ退いて腹を切った。二の丸を奮取した北国勢はさらに本丸に攻めかかり、まだ日の高いうちにすべての郭を攻め落としてしまった。この八王子城陥落により、北条氏の支城はすべて失われた。残すは北条氏本城の小田原城のみである。

123. 八王子城跡
  東京都八王子市元八王子町3丁目

八王子城は小田原に本拠地を置く北条氏の最大の支城であり、三代北条氏康の二男、北条陸奥守氏照の居城であった。
氏照は当初、多摩川と秋川の合流地点にある滝山城(八王子市高月町)を居城とし、その支配地は北は五日市、青梅、飯能、所沢一帯、南は相模原、大和から横浜の一部にまで及んでいた。氏照が居城を滝山から八王子に移した動機は1569年、武田信玄が滝山城を攻撃し、落城寸前にまで攻められたことから、強固な八王子城の築城を思い立ったといわれている。
しかし、この頃は、城郭が平城化する時期であり、丘山の滝山城から、より急峻な八王子城への氏照の築城意図は時代に逆行する面もあり、謎が多い。築城は1580年前後から開始され、1584年〜87年までに氏照は滝山城から移ったとされる。氏照が構想してきた城郭は壮大で、落城時にはまだ未完成の状態であったと考えられている。
尚、山頂付近には913年、華厳菩薩妙行がここで修行中に、牛頭天王と8人の王子が現われ、その因縁で916年、八王子権現を祀ったという八王子神社がある。この伝説が「八王子」の名称の起源だという。平成18年、八王子城は日本城郭協会により「日本100名城」に認定された。都内では江戸城と、ここ八王子城と2ヵ所だけの認定である。

  
                                八王子城跡
124. 御主殿跡 八王子城跡

北条氏照の居館跡とみられる御主殿跡は、南北40m、東西90mの土塁に囲まれた曲輪で、ここからは約7万点の遺物が出土した。その中で最も多いのが中国(当時は明)から輸入された染付けの磁器で、その他にベネチア産のレースガラス、国産の壷や甕、茶道具が発見された。ここは落城後、徳川の直轄領となり、明治以降は国有林であったため、落城当時のままの状態で保存されていたという。
尚、ここからは瓦が一枚も発見されていないことから、御主殿は板葺きの建物であったと考えられている。

125. 御主殿跡・虎口(こぐち) 八王子城跡

虎口とは城(曲輪)の入口のことをいう。御主殿の虎口は北東隅に設けられ、桝型であった。現在、当時の石垣や石畳をなるべく利用し、できるだけ忠実な方法で復元してある。

126. 御主殿跡・曳橋(ひきばし)  八王子城跡

御主殿へ渡るために「城山川」に架けられた橋。
現在の橋は当時の道筋を再現するために現在の技術で、戦国時代当時の雰囲気を考えて架けられた。

  

127. 御主殿の滝  八王子城跡

落城時に御主殿にいた北条方の婦女子や武将らが滝の上流で自刃し、次々に身を投じたといわれていて供養塔が建っている。
その血で「城山川」の水は三日三晩、赤く染まったと伝えられる。


128. 北条氏照の墓
  東京都八王子市元八王子町

氏照は三代、北条氏康の二男として1540年頃生まれた(兄は小田原城主、北条四代、氏政)。幼少の頃、多摩や入間、高麗に勢力を持っていた大石氏の養子となり「大石源三氏照」と名のり、滝山城に入る。そして大石氏の領地を北条氏のものとして北条の勢力を伸ばしてゆき、最大の敵であった三田氏を滅ぼして下総、下野へも領地を拡げ、北条氏支配を強めていった。
小田原開城後、氏照は兄、氏政とともに秀吉から切腹を命じられ、7月11日、小田原城下で46歳(50歳とも?)の生涯を閉じる。この墓は氏照の百回忌を機に氏照の家臣、中山家範の孫、中山信治によって建てられたもので、両脇はその中山家範、中山信治の墓である。
この氏照の「墓」はいわば供養塔で、本当の墓は小田原駅前に残っている。(後述)


129. 滝山城跡
  東京都八王子市高月町

国指定の史跡、滝山城は戦国時代中頃の1521年、武蔵国守護代、大石定重がこの城の北西約1.5kmの高月城から移り、築城したものと伝えられる。定重の子、定久の時、北条氏康の支配を受け、その子氏照を養子に迎え、滝山城は大石氏から北条氏照の居城となった。氏照はさらに城を拡充し、その規模、雄大さは当時、関東屈指の平山城と称された。侵食の進んだ加住丘陵の一角に占地し、複雑な自然地形を巧みに利用した天然の要害であり、特に北側は多摩川との比高50〜80mの断崖をなしていて、北から侵入する敵に対しては鉄壁の備えとなっている。城内は空堀と土塁によって区画された大小30ばかりの郭群が有機的に配置され、外敵の侵入に備えた心配りは実に美事といえる。
上杉謙信、武田信玄などから猛攻を受けた滝山城だが、なかでも1569年10月、信玄・勝頼父子が小田原攻略の途中に2万の兵で本城を囲み、二の丸まで攻め寄せた戦いは熾烈を極めたといわれている。この戦いののち、氏照は領地の備えをより固めるため、南西約9kmの地に八王子城を築き、滝山から移る。移転の時期は定かではないが、1580年代と推測される。これ以後、滝山城は廃城となる。
滝山城下には小規模ながら横山、八日(市)、八幡の3つの宿場が城下町をかたちづくり、市(いち)も開かれていた。この3宿も城と共に八王子城下に移ったが、八王子落城後は現在の市内に移り、八王子市の中心として発展してきた。また元の場所にも地名は残った。「元八王子」と呼ばれる所以である。

  
堀跡                            滝山城跡



■ ■ ■


130. 本丸跡
  滝山城跡

本丸跡は大きく分けて二段の郭があり、上段からは多摩川を眼下に遠方まで見渡せる。下段には当時の井戸もあり、良好な状態で保存されている。中の丸とは引橋(曳橋)又は跳橋(はねばし)で連絡されていたと推定され、現在その引橋が復元されている。桝形虎口や土塁がよく残っており、竪堀も傾斜地に数条配している。

  
多摩川方面を望む                       井戸跡

131. 中の丸跡
  滝山城跡

滝山城古地図には、この曲輪は「千畳敷」と記されている。
中の丸は城全体の北側に本丸と対に配置されており、内部は本丸と同様に二段に分かれている。かつては桝形土塁や本丸へ渡る引橋が設置されていた。
  

132.二の丸跡 
 滝山城跡

二の丸外には馬出曲輪が造られ、千畳敷跡などの曲輪も残っている。




                                 千畳敷跡



133. 小田原評定
  神奈川県小田原市城内

秀吉が小田原攻めの兵を挙げた時から小田原城内では、北条氏政・氏直父子をはじめ、氏照・氏房ら主要な一族の間で連日軍議が開かれていた。議論は籠城か出撃かであるが、いっこうに結論は出ない。「小田原評定」という言葉の由来である。
氏政・氏直父子には一つの目算があった。先年まで秀吉と対立していた家康とは婚姻関係にある。また奥州には、いまだ旗幟を鮮明にしていない伊達政宗がいる。これらと協調できれば秀吉に十分対抗できる。地の利もある。西から大軍を率いてくる限りは天険とされる箱根、碓氷を越えなければならない。いかに秀吉といえどもそうやすやすと東征できないのではないか?

                                        小田原城

134. 山中城跡  静岡県三島市

これより前の1590年1月、秀吉から先鋒を命じられた家康は駿府城から出撃して東海道を東進する。続いて3月には秀吉自らが3万2千の大軍を率いて小田原に向い、駿河で家康と合流した。
北条は小田原の本城を守るため、箱根山脈内外に多くの城や砦を築いていたが、西側の入口、駿河、伊豆方面から小田原に通じる箱根道の要衝に山中城があった。この辺りの城の中で最も堅城といわれ、城郭は東西三町、南北二町にもわたり、三島側に突出した岱崎(だいざき)には出丸も設けられていた。3月29日、秀吉は小田原攻めにあたり、先ずこの城の攻略を甥の秀次に命じた。
難攻が予想されたがそれに反し、わずか半日(一日?)で城は陥落する。
これには近江国水口城主、中村一氏の家臣、渡辺勘兵衛(槍の勘兵衛)の超人的な働きに負うところが大きかったという。

  


135. 障子堀・畝(うね)堀跡  山中城跡

水のない空堀の底に畝を残し、敵兵の行動を阻害するという、北条流築城術の特徴の一つ。
この城は他にも土塁の構築法、尾根を区切る曲輪の造成法、架橋や土橋の配置、曲輪相互間の連絡道等、自然の地形を巧みに取り入れた縄張りの妙味。用水池、井戸等飲料水確保の仕方。石を使わない山城最後の姿など、学術的にも貴重な遺構を留めている。 

  

136. 宗閑寺  山中城跡 

山中城、三の丸跡に建つ宗閑寺。ここには3月29日落城の際、岱崎出丸で戦死した山中城主、松田康長・副将の間宮康俊をはじめ当時の箕輪城(上野国)主、多米出羽守平長定、それに豊臣方の先鋒、一柳直末ら両軍の武将の墓がある。

  

137. ちょっと寄り道C  箱根駅伝折り返し地点 神奈川県箱根町

出場回数、優賞回数、連覇回数とも最多を誇る我が母校。
しかしここ十数年優賞はない。万年3位とまでいわれた時期もあったが、最近はそれどころかシード入りさえ危うい状況となっている。伝統の赤の襷がトップで東京大手町に帰ってくるのはいつのことか?嗚呼・・・。


138. 早雲寺  神奈川県箱根町箱根湯本

山中城を落とした秀吉軍は4月2日、箱根の山を越え、さっそく小田原城を包囲した。4月5日には早雲寺に入り、ここを秀吉の仮本陣とする。早雲寺は1521年、後北条氏の始祖、伊勢新九郎長氏(北条早雲)の遺命により、その子氏綱が建立した寺。
当時、関東屈指の禅刹として威容を誇ったが、6月下旬、石垣山一夜城が完成し、本陣を移した秀吉はこの寺に火を放ち、伽藍、塔頭寺院はことごとく灰燼に帰した。小田原戦後、北条一門では伊豆韮山城主、北条氏規(氏政の弟)が大阪河内狭山に(狭山北条氏)。また鎌倉玉縄城主、北条氏勝が家康の傘下に入り下総岩富に(玉縄北条氏)共に一万石を与えられ、その家系は江戸時代を通じて存続している。
早雲寺の再建は元和、寛永期に当山十七世、菊径宗存によって着手されるが、復興にその北条両家の外護は欠かせなかった。
早雲寺といえば「北条五代の墓」があることで有名だがこれは1672年8月15日、狭山北条家五代、氏治が北条早雲の命日に合わせ竣工した。小田原北条氏滅亡から82年後のことであった。

  


139. 北条五代の墓  早雲寺

写真左から

初代 北条早雲(1432〜1519)
俗名、伊勢新九郎長氏(宗瑞)。戦国初期を代表する武将。京都から駿河今川家に身を寄せ、伊豆、相模を攻略。伊豆韮山で没。享年88歳。

二代 北条氏綱(1486〜1541)
父、早雲の遺志を継ぎ、武蔵、下総へ進出、小田原へ居城を移す。享年56歳。

三代 北条氏康(1515〜1571)
扇谷上杉氏を滅ぼし関東の覇権を握る。領国経営に優れた手腕を発揮。武田信玄・上杉謙信とも戦った。信玄との同盟復活を遺言し死亡。享年57歳。

四代 北条氏政(1538〜1590)
夫人は信玄の娘、黄梅院。信玄の西上を後援、信玄亡き後は信長と連携して武田勝頼討伐に加担。その後秀吉に敗れ切腹。享年53歳。

五代 北条氏直(1562〜1591)
夫人は家康の娘、督姫。下野宇都宮氏を降し、北条氏最大の領国を形成する。昌幸の名胡桃城を奪取して秀吉と対立、敗れる。家康の助命により高野山に流されるが翌年死去。享年30歳。


140. 石垣山城(太閤の一夜城)  神奈川県小田原市早川

秀吉は箱根湯本の早雲寺に仮の本陣を置いた後、小田原城からわずか3km、松の密林に覆われた笠懸山(松山)の頂上に急造の城を築く。簡単な木組みをし、板を張りつけ、これに白紙を張りめぐらして城のやぐらか天守台にように見せかけた。
一夜のうちに周囲の樹木を切り払うと遠目には突如として城が出現したかのようである。幻のような城を見て小田原城内の将兵はあっけにとられ、戦意を喪失してしまう。
秀吉は戦を急がずゆったりと構え、次には本格的な築城に取りかかる。6月26日、城は完成するが、秀吉はこの城に滞在していた100日余りの間に天皇の勅使を迎えたり、千利休や能役者、猿楽師らを呼び寄せた。また淀君などの側室も呼び、参陣の諸大名にもこれに倣うよう勧めたといわれている。
この城は関東で最初に造られた総石垣の城であることから石垣山と呼ばれるようになった。石積みは秀吉が連れてきた近江の穴太(あのう)衆による、野良積といわれるあまり加工されていない石を用いたもの。
一夜城といわれるが実際の工期は80日ほどかかり、延べ4万人が動員されたという。
秀吉は家康と連れ立ってこの石垣山から小田原城を見下ろし、「あの城が落ちたらそちに関八州を進ぜよう」と言い、二人並んで城に向かって小便をしたという。

  

141. 本城曲輪(本丸)跡  石垣山城跡

標高255〜257m。東西75〜90m。南北約90m。最も広い面積を有する曲輪で、南西部には「天守台」がある。
この曲輪からの眺望は四方に開かれ、北東隅からは小田原城下、足柄平野、大磯兵陵、丹沢山塊、更には相模湾から三浦、房総半島に至るまで一望できる。
小田原城包囲軍の指揮をとるには最も適した場所といえる。

  

142. 天守台跡  石垣山城跡

標標261.5mで当城中最も高い位置にある(小田原城の本丸より227m高い)。
古地図によると四角い平面形で周囲には石垣が巡っていた。瓦屋根のやぐらが建っていたという。

143. 馬屋曲輪(二の丸)跡  石垣山城跡

ここ馬屋曲輪(二の丸)は本城曲輪(本丸)と並んで最も広い曲輪で、中心部分、北へ長方形に張り出した部分、並びに東の腰曲輪部分の3つの区域から成っている。
伝承によれば馬屋が置かれ、本丸寄りには馬洗い場と呼ばれた湧水もあったという。「井戸曲輪」に行く道のすぐ横には「やぐら台跡」が残っている。

  

144. 井戸曲輪跡  石垣山城跡

井戸曲輪は二の丸の北東側にあり、もともと沢のようになっていた地形を利用し、北と東側を石垣の壁で囲むようにして造られている。井戸は二の丸から25mも下がったところにあり、今でも湧き出る水を見ることができる。
この井戸は「淀君化粧井戸」または「さざえの井戸」と呼ばれ、一夜城の中でも特に当時に姿をよく留めている場所であり、石垣の特徴を知る上で貴重な遺構といえる。 


145. 小田原城包囲戦  神奈川県小田原市城内
                                                              小田原城
北条父子の目論みは外れた。家康は北条に同調するどころか秀吉の麾下となって逆に氏政・氏直に上洛を促す。伊達政宗は自身が秀吉から追討令を発せられ、その弁明のため北条討伐軍に加わった。そうこうしているうちに北と南から小田原に進軍した討伐軍は全国の諸大名からなる秀吉・家康の本隊と北国勢、それに相模湾に展開する毛利・長宗我部の水軍を合わせ総勢22万にも及んでいた。
対する北条父子の城兵は5万6千。これを小田原城に入る9つの入口に分け、守りを固める。


146. 篠(ささ)曲輪の戦い  神奈川県小田原市山王橋周辺

小田原城包囲戦では戦さらしい戦さは行なわれなかった。
唯一行なわれたのが篠曲輪と呼ばれた場所での局地戦である。ここで家康の重臣、井伊直政が功をあげ、のちに上野国箕輪城12万石を賜った。篠曲輪があったとされる山王橋周辺は現在、国道1号線が通り、交通量が激しい。近くには山王神社、北条稲荷、東海道一里塚など旧跡が存在するが、この篠曲輪については何も触れられていない。




147. 小田原城開城   神奈川県小田原市城内
                                                            小田原城堀跡
小田原城包囲を続けながら秀吉は一方で前田・上杉・真田らの北国勢、浅野長政・木村一、それに家康の重臣らを遣わして北条方の関東の支城を片っぱしから攻め落とした。
4月末には江戸城をはじめ、三十近くを攻略。5月にはいずれも要地を押さえる川越、松山、岩付の3城を攻め取った。
6月に入って鉢形城が落ち、23日には最後の砦八王子城が陥落する。24日に至って、長く持久包囲に耐えていた韮山の北条氏規が家康の和議の申し入れを受けて開城すると、小田原は裸同然の孤城となってしまった。
城下町を囲む延長9kmにも及ぶ大外郭を構えた巨城小田原城であったが、孤立無援となっては籠城戦の意味はなく、ついに北条父子は観念する。
7月5日、北条氏直は弟氏房と共に城を出て豊臣方の滝川雄利(かつとし)の陣に投降した。7月11日、北条氏政・氏照・大道寺政繁・松田憲秀の4人が切腹、氏直は高野山に追放された。
小田原城は鎌倉時代に土肥遠平が築いた山城が前身とされる。戦国時代になって扇谷上杉氏のものとなっていたが、1495年、後北条氏の始祖、早雲に奪取された。以来、北条氏四代にわたって拡張され、氏直の頃には白亜三層の大天守と山天守を持った複合天守閣を構え、広さ東西約50町、南北70町という大城郭を誇っていたという。
北条氏滅亡後は、家康の家臣、大久保氏が城主となる。その大久保氏が本多正信との政争で敗れ改易後、阿部氏、番城時代を経て、寛永年間に稲葉氏が城主となると大規模な改修工事が実施され城は姿を一新する。そして大久保氏が再度城主となるが、1703年に発生した地震により、天守をはじめ城内の各施設はほぼ倒壊してしまう。その後、本丸御殿などを除き再建され、幕末に至る。明治3年、小田原城は廃城となり、他の都市の城と同じように売却され、次々と解体された。城跡は御用邸時代を経て、地方自治体に払い下げられ今日に至る。国指定史跡にも指定され、今も整備が続けられている。


148. 天守閣  小田原城

江戸時代に造られた雛型や引き図を基に昭和35年に復興された。3重4階の天守に付やぐら、渡やぐらを付している。
尚、最上階の高欄は復興に際して新たに付けられたもの。
内部には甲冑、刀剣、絵図、古文書など小田原の歴史を伝える資料や、武家文化に関わる資料などが展示されている。 

149. 二の丸御殿跡  小田原城

江戸時代の小田原城には、将軍の旅宿専用の「本丸御殿」と、藩主の居館や行政を司る政庁としての役割をもった「二の丸御殿」の二つの御殿があった。二の丸御殿は三代将軍家光が上洛の折り、小田原城に止宿した寛永年間(1624〜44)の頃が最も壮麗で、能舞台や唐門も備えた立派なものであったという。
しかし1703年に起きた大地震により小田原城は甚大な被害を受け、二の丸御殿も倒壊し炎上した。その後再建され、徐々に増築されたものの、以前の姿には到底及ばなかったという。
平成9・10年には、この二の丸御殿跡で試掘調査が行なわれ、1703年の大地震(元禄の大地震)で真っ赤に焼けた土と前期の御殿の礎石や屋根に葺かれていた瓦などが出土した。
また、後期の御殿は前期の焼け跡を一目埋め立てて、新たに建てられたこともわかった。


150. 銅門(あかがねもん)  小田原城

銅門は小田原城二の丸の表門にあたる。馬屋曲輪から住吉橋を渡り、二の丸へと通じる大手筋に設けられた枡形門である。扉の飾り金具に銅が用いられていたことにこの名の由来があると考えられる。
銅門の北側には藩主の居館である二の丸御殿があった。小田原城は江戸時代前期の1632年、稲葉正勝が城主となり、この頃から石積み工事が行なわれるなど小田原城の大幅な改造が加えられた。銅門もこの普請によって築かれたものと考えられている。以後、銅門は改造、修理を受けながら江戸時代を通して存在したが、明治5年9月頃、陸軍省より払い下げとなり解体された。


151. 歴史見分館  小田原城

当時にタイムスリップしたような感覚で、小田原城の歴史を音と映像で楽しむことができる、体験型の情報館。館内はウェルカムゾーン・北条五代ゾーン・江戸時代ゾーン・小田原情報ゾーンと4つの区域で構成され、小田原城の始まりから現在に至るまでの歴史を模型や映像で分かり易く説明している。


152. 大手門跡
  小田原城

鐘撞楼があるこの場所は、江戸時代の小田原城の大手門があった所。この門を入ると西側一帯は三の丸となり、道の両側には小田原藩の家老級の屋敷が建ち並んでいた。
1633年、城主であった稲葉氏は、それまで箱根口(城の南側)付近にあった大手門を三代将軍家光が京都に上るのに備えて、江戸に向く現在地に移し、大手門前までの道は将軍家が小田原城に入るための御成道として整備させた。
この時、東の入口であった江戸口見付も国道1号線沿いの現在の位置に移している。
大手門の造りを元禄時代の絵図で見ると、三の丸の堀に架かる土橋をわたると、外からの攻撃や敵の侵入を防ぐため馬出と呼ばれた空間があった。更に冠木門(かぶきもん)と呼ばれる門と桝形と呼ばれる四角い空間も存在した。この桝形は、やぐら門や石垣塀で囲われており、厳重で立派な門であったことがわかる。
この鐘は現在、朝夕6時に撞かれ、時を知らせている。時を知らせる「時の鐘」は長い間、昼夜の隔てなく撞かれていた。1686年の「貞享3年御引渡記録」の中に「小田原の時の鐘は昼夜撞いている。鐘撞きの給金は一年、金6両で、このうち金3両は町方から、残り3両は町奉行所から遣わしている」という記事があり、300年以上前から撞かれていることになる。
この鐘は初め浜手御門(ここより約150m南)の辺りにあったが、明治29年、裁判所の北東隅に移され、さらに大正年間、現在の場所に移された。昭和17年には太平洋戦争の激化により軍需資材が欠乏したため、政府は金属類の供出命令を出し、鐘は応召される。その後、時報は鐘に代わってサイレンやチャイムになったが、城下町に似つかわしくない、ということで昭和28年、新しい鐘が作られた。それが現在のこの鐘である。


153. 徳川家康陣地跡の碑  神奈川県小田原市寿町

この記念碑は小田原戦役の際、徳川家康が陣を張った跡に建設されたもの。碑文は小田原城主、大久保忠真の作で、藩士、岡田左太夫光雄に書かせ、1836年9月に建立された。
家康はこの戦役に豊臣方の先鋒として約3万の兵を率いて出陣し、その兵を三方に分けて箱根を越えた。三島から宮城野を経て明星岳を越え久野諏訪原に出た軍、鷹の巣城(箱根町)を陥れて湯坂を越えた軍、そして足柄城(南足柄市)・新荘城(山北町)を陥れ足柄越えをした軍とが合流し、小田原城の東方のこの地に布陣した。
陣所は当時、今井(現、寿町)に住んでいた柳川和泉守泰久の宅地で、家康はここを本陣とし、北条氏が降服し開城するまでのおよそ110日間、滞留していたといわれている。


154. 北条氏政・氏照の墓所  神奈川県小田原市

小田原駅東口、賑やかな飲み屋街の一画にある。
北条氏政は北条氏四代の領主。氏照は氏政の弟で、八王子城など5つの支城の城主であった。1590年、秀吉の小田原攻めにより小田原城が落城すると五代、北条氏直は高野山に追放され、父、氏政とその弟、氏照は城下の田村安斎邸(現、南町)で自刃する。両人の遺体は当時この地にあった北条氏の氏寺、伝心庵に埋葬された(現在、永久寺所有)。その後、放置されていた墓所は稲葉氏が城主の時(1633〜85)、北条氏追福のため整備される。関東大震災では墓所が埋没する被害を受けたが、翌年地元の有志により復元された。
写真は左から北条氏照、氏政、氏政夫人の墓。氏政夫人の墓は何故か二人より大きい。手前の平たい石は「生害石」といわれ、この上で氏政、氏照の二人が自刃したと伝えられる。

  


155. 忍(おし)城跡  埼玉県行田市本丸

小田原落城後の1590年7月16日、最後まで秀吉軍に抵抗した成田氏の忍城が落城し、秀吉の北条征伐は完結、その後、陸奥の伊達政宗も屈したため秀吉の天下統一は成った。
忍城は1479年頃、この地方に台頭した成田顕泰により築城され、以後百年、成田氏の支配が続いた。小田原攻めの際は北条氏に味方していたため、忍城は秀吉方の石田三成から水攻めを受ける。沼や深田など、天然の要害を巧みに利用した忍城であったが、その後開城し、関東に入国した徳川家康の持ち城となる。
徳川の時代、城主は松平氏、阿部氏と続き、または城番が置かれたりして明治維新を迎えた。戊辰戦争の戦火を逃れた忍城であったが明治6年、主な建物は競売に付され、往時の面影は全て失われた。近年、かつて忍城にあった三層やぐらが本丸跡に再建された。この中は行田の歴史や行田の町を支えた基幹産業『足袋』について詳しく展示する「行田市郷土博物館」となっている。

  


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