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「真田一族の歴史がよぉ〜くわかる本」 関東甲信越編

第11章 秀吉の死と東西対立
父子兄弟、犬伏での別れ



156. 総社城跡  群馬県前橋市総社町

小田原北条氏を撃ち破った秀吉は、即刻諸大名の配置替えに着手した。北条氏の遺領は家康に与えられ、家康は本拠地を駿府から江戸に移し、ほぼ関東全域を掌中するに至った。この間、信濃の小笠原秀政は下総古河に、諏訪頼忠は上野総社にそれぞれ配置替えとなり、代って信濃では秀吉の臣、仙石権兵衛秀康が小諸に、石川出雲守康政が松本に、諏訪には日根野織部高吉が、伊那には毛利河内守秀頼が入って、木曽は秀吉の直轄地とされた。このようなほぼ全面的は配置替えが進行する中で、昌幸だけが例外的に小県郡の本領を安堵された。これはそれ以前の働きから昌幸が秀吉の直臣と判断されたため、と思われる。さらに秀吉は家康に対し、昌幸に上野沼田領を安堵することを相談し、家康もこれを承諾している(上野は家康の領分なので沼田城には信幸が入り、家康に属することになる)。
1590年、信幸と幸村は相ついで結婚した(幸村は1594年とも?)。信幸は前述の家康の養女、小松姫(本多忠勝の娘)、幸村は秀吉の近従で、石田三成の盟友でもある大谷吉継の娘を娶った。このことは後に父子兄弟の別れの原因ともなるが、それはともかくとして、秀吉が天下を統一すると日本国内の戦火は次第におさまり、しばらくは安定した時代が続く。秀吉は余勢をかって朝鮮に出兵する(文禄、慶長の役)が、この時昌幸たちは肥前名護屋に出陣するものの、直接の戦闘にはでなかったようである。国内が安定しているこの時期に、諸大名は自領の治政に勤しんだ。信幸は沼田を整備し、領内の経営に力を注ぐ。昌幸はこの頃上田城を拡大、完成させている。秀吉は大坂城に次いで京都に伏見城を建設する。この建設には昌幸らも携わっており、その影響は自らの城の築造にも反映させている(昭和2年、上田城跡の発掘調査で、桃山文化特有の金箔を施した瓦が出土した)。
こうした一時的な安定は、秀吉の死とともに崩れる。家康の天下取りのため、日本中で動乱が始まるが、真田父子もいやおうなく、その中に巻き込まれていく。

  
総社城跡                           上田城跡




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157. 江戸城跡  東京都千代田区千代田

一世を風靡した豊臣秀吉は1598年8月、没した。秀吉の死後は五大老(徳川家康・前田利家・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元)の合議で政治を運営し、五奉行(前田玄以・浅野長政・増田長盛・石田三成・長束正家)が庶制を執行することになった。しかし、秀吉の遺言どおり始められたこの五大老・五奉行の合議に基づく豊臣秀頼擁立の政治も、五大老の一人で秀吉の信任の最も厚かった前田利家が1599年3月、秀吉のあとを追うように死去してからは、ほとんど有名無実のものとなり、結局は家康が主導権を握り、天下の実権者としての地位を確立していく。
そんな中で豊臣派だった昌幸・幸村父子も家康の傘下に入り、真田一族は一致して徳川方になったかと思われた。
1600年6月、家康は五大老の一人で、秀吉の生前に越後55万石から会津120万石を賜った上杉景勝を謀反の疑いあり、として討伐の兵を興す。家康は6月16日に大坂を出発、途中伏見に立ち寄り東海道をゆっくり東上して7月2日に江戸城に到着する。ここでしばらく滞在し、7月21日に江戸城を出て、下野国小山に着陣したのは7月24日であった。こうした緩慢な家康の行動は、時の反家康勢力の中心となっていた石田三成に対する陽動作戦だとする説もあるが、西国の反徳川勢力の挙動を伺いながらの東進(上杉征伐)であったことは間違いない。
はたして7月初め、石田三成は一時隠遁していた近江の佐和山城から大坂に出て、増田長盛・長束正家・前田玄以ら、かつての五奉行たちと計って秀頼を擁立し兵を挙げ、7月19日には家康の留守居役、鳥居彦右衛門らの守る伏見城を攻撃した。天下分け目「関ヶ原の合戦」につながる戦闘の幕はいよいよ切って落とされた。


158. 高崎城跡
  群馬県高崎市
                                           NHK大河ドラマ「真田太平記」より
1600年6月、真田父子(昌幸・信幸・幸村)は家康の命により会津征伐に参戦し、それぞれ上田、沼田を発った。大河ドラマ「真田太平記」では昌幸・幸村の軍は途中、高崎に泊り、陣を構えている。
昌幸にとっては西国、石田三成らの動向がとても気にかかる。
しかし、これまで彼らから昌幸の許へは何の沙汰もない。
箕輪城を与えられた徳川四天皇の一人、井伊直政が家康の命令で1598年、中山道と三国街道の分岐点にあたる交通の衝、高崎に城を構えたのが高崎藩の興り、とされている。直政は箕輪から町屋や寺院を移転させて城下町の基礎を築いた。
今は三の丸を囲む土塁と堀が残るのみだが、本丸、二の丸、三の丸を囲郭式に構え、二の丸を本城とし、三の丸に武家屋敷を置いていた。また「遠構え」と呼ばれた城下町を囲む堀と土塁も当時は築かれていたという。
都市化が進み、昔日の面影を残す箇所は少なくなったが「乾やぐら」「東門」は近年復元、整備された。

  
三の丸土塁と堀                        乾やぐら



159. 唐沢山城跡  栃木県佐野市

7月21日、下野国犬伏(現、佐野市)唐沢山城で陣を張っていた昌幸の許に、待ちに待った石田方からの密書が届いた。大老、毛利輝元を総師に据えて挙兵したので大坂方(西軍)に味方せよ、との内容である。そこで昌幸は先鋒の徳川秀忠軍に従い、宇都宮近くまで部隊を進めていた信幸を急遽呼び寄せる。
3人は近くの薬師堂に入り、終夜密談を続ける。秀吉の恩顧を過分に受けた昌幸と幸村。加えて昌幸の娘婿と三成の妻は兄妹という姻戚関係にあり、幸村の妻は秀吉の薦めで娶った三成の盟友、大谷吉継の娘で、三成とは簡単に切れぬ強い間柄にある。
そして信幸は一身に己を支えてくれる妻、小松姫(家康の養女)の存在が大きいが・・。

  
唐沢山城跡                          薬師堂


160. 犬伏の別れ
  栃木県佐野市犬伏新町米山古墳薬師堂

薬師堂での密議の結果、信幸はあくまで家康に従い東軍に就くと主張する。昌幸と幸村は三成の要請を受け西軍に与する。
これで父子兄弟は敵味方となって戦うことが決まった。
この間の内容、事情については知るべくもないが、前述の婚姻関係の背景があったにせよ、関ヶ原の戦いのあとも父子兄弟の間は反目することがなかったことから考えて、詰まるところ東軍西軍どちらが倒れても真田家は残る、というのが腹を割った密談の本音と推測される。
その後、昌幸と幸村は夜半に犬伏の陣を極秘に抜け出し、7月23日の深夜、休息すべく沼田城に立ち寄った。ここで小松姫に入城を拒否され、近くの正覚寺で一泊し、上田に帰国する。
一方、昌幸・幸村と別れた信幸は小山の家康を訪れ、忠節を誓っている。ところで石田方から昌幸へは合計11通もの書状が届けられている。昌幸から石田方への書状は残されていないが、石田方の返書の内容から察すると、石田方に味方するため会津出陣を取り止め上田に帰ったはずの昌幸だが、肝心の石田方に対してなかなか明確な態度を示さないでいたことがわかる。
昌幸は三成が挙兵を事前に打ち明けてくれなかったを難じたり、信幸が石田方に加わらないことを伏せたりして明瞭な意思表示をせず、相手の返答次第で徐々に手の内を出していった。それは、石田方における自己の地位、代償を考えた昌幸の処世術、深慮遠謀が働いたからといえる。結果、石田方は戦後における昌幸の仕置き(取締り範囲)を信州全土から、信州プラス甲州の一部、さらに信州、甲州の全土、と徐々に拡大させ昌幸の気を惹いた。
ともあれ昌幸は西軍に就いた。そして来るべく徳川軍との決戦を前に上田城の備えを固めねばならない。

  
                           NHK大河ドラマ「真田太平記」より

161. 小山評定跡
  栃木県小山市小山市役所

前田利家が死去し、大坂城西の丸にあって秀吉の遺児、秀頼を護りつつ覇権を握ろうする家康は大坂、伏見を離れ、上杉景勝討伐のため江戸に戻ってくる。江戸城にじっくりと滞在した家康は嫡男、秀忠を先発させ。ゆるりと出陣、途中下野の国、小山に陣を張った。そこへ毛利輝元を総帥に据えて西軍を組織した石田三成が挙兵し、伏見城を攻撃したという報せが入る。上杉景勝や石田三成らがたまりかねて決起するようにし向けていた家康は、この機を待っていたと思われる。
反抗する勢力を撲滅する開戦の名目がこれで立つことになった。
家康はこの報せを聞くや直ちに会津へ向かっている諸将を小山の陣に呼び集めて上杉討伐軍を解散、西軍打倒に尾張清州城主、福島正則に先鋒を頼み、自らは江戸に引き返し、天下分け目の決戦へ向う。
この地は1600年7月25日、その軍議が開かれた所。元々ここには、この地方の豪族、小山氏の館があったという。
家康はここに三間(約5m)四方の仮御殿を急造させ、家康と秀忠を中心に徳川家臣の本多忠勝・本多正信・井伊直政や福島正則・山内一豊・黒田長政・浅野幸長・細川忠興・加藤嘉明・蜂須賀至鎮らの旧豊臣恩顧の諸将を参集させた。この席で初めて大坂方の挙兵を知り、動揺した諸将も多かったというが、ここで福島正則が真っ先に家康への協力を誓い、軍議は家康の期待したとおりのものとなる。尚、真田信幸もここに列席していたと思われる。家康は父、弟と別れて味方に残留してくれたことが余程嬉しかったとみえて、昌幸の領地を没収して宛行う、という安堵状を即、信幸に与えている。


162. 須賀神社
  栃木県小山市

家康が小山評定(軍議)後、参籠して関ヶ原の戦勝を祈願した神社。一説にはこの神社の境内で小山評定が行われたとも伝えられる。
戦後、家康は祈願成就したことにより、51石余りの社領をここに寄進した。のち、家康の崇拝神社なる故をもって、三代家光の命により、日光東照宮造営職人の奉製による朱神輿(あかみこし)が当神社に奉納された。


163. ちょっと寄り道C  渡良瀬橋  栃木県足利市

森高千里の名曲「渡良瀬橋」。実際の渡良瀬橋は曲のイメージとはかけ離れた交通量の多い鉄橋で、大型トラックやバスの往来が激しい。

『テレビ東京系の旅番組「いい旅夢気分」のエンディングテーマ用に作った曲です。せっかくの旅番組なので旅情ある詩にしたくて、言葉の響きの良い川や橋の名前を入れてみよう、とまず思いました。地図帳を開いて索引を見ながらいろいろ探して、結局きれいな名前だな、と思って選んだのが渡良瀬川だったのです。次は渡良瀬橋が実存するかを今度は道路マップを使って調べたら、足利市にかかっていることがわかりました。以前、足利工業大学に学園祭で行ったことを思い出し、急にイメージがわいたので、今度は実際に渡良瀬橋に行って、さらにイメージをふくらませて書き上げました。
足利の市長さんから感謝状をいただいたり、アンコールでこの曲をみんなで大合唱した足利市民会館のコンサートのことなど忘れられない思い出が多い曲です。それに本格的に楽器を手がけた最初のシングルでもあります。』
以上、アルバムのコメントより。


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