「真田一族の歴史がよぉ〜くわかる本」 関東甲信越編 第5章 昌幸、真田家を継ぐ 叔父、矢沢頼綱との二人三脚 |
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49. 沼田城跡 群馬県沼田市西倉内町 |
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1575年、昌幸は家督を継ぐと父、幸隆・兄、信綱にならって上州方面の経営に力を注いでいった。1578年、上杉謙信が死ぬ。その相続をめぐって二人の養子(景勝・景虎)が争い、武田勝頼も介入して景勝が跡を継ぐことになる。 この間、上杉が支配していた上州方面はすっかり手薄になり北条勢が侵攻してきていた。昌幸は勝頼から沼田攻略を任され、これを受けた昌幸は叔父の矢沢頼綱をして正面から沼田を攻めさせると同時に周辺部を攻略、沼田城対岸にある名胡桃城の鈴木主水などを味方に引き入れることに成功する。 1580年5月、ついには父から受け継いだ内部切り崩し戦術により沼田城は陥落、以後長年にわたって真田氏による支配が続くこととなる。 沼田城は1532年、沼田顕泰が最初に築城したといわれる。 関東、越後、会津を結び、要衝の地にあるため上杉、北条、そして武田の命を受けた真田家が覇権をめぐって熾烈な争奪戦を繰り返した。北条氏滅亡後は長男、信幸が真田家として初代城主となり、以後代々長男がこの城を治めた。 現在、沼田城跡は沼田城址公園となっていて、石垣や2代城主、信吉が造った城鐘などが残っている。 |
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50. 矢沢城跡 長野県上田市矢沢 |
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この沼田攻めの時、昌幸は側近として勝頼のもとにあったようであり、沼田城陥落は矢沢頼綱の功績が大きかった。 これを賞して勝頼が頼綱に宛てた感謝状が今も残っている。矢沢頼綱(綱頼とも?)薩摩守は幸隆の弟、昌幸の叔父に当たり、諏訪神氏ゆかりの矢沢家を継いだ。 幸隆の代から真田家のためによく戦い、沼田城代としてのち北条勢を何度も退け奮戦した。1597年没、享年80歳。 矢沢城は矢沢氏の居城であり頼綱の築城と伝えられる。 上田市矢沢の集落の東方、神川にせまる東殿城山の尾根の尖端にあり、真田氏が真田町に本拠を置いた時代、西方の砥石城と相対して神川の左岸を押さえるための重要な城であった。現在、本郭跡は公園となり桜の名所としても知られる。矢沢氏が信之に従って松代に移った後は旧旗本、仙石政勝の領地となる。麓の矢沢集落にはその仙石氏の屋敷跡、代官屋敷の跡も残る。 |
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NHK大河ドラマ「真田太平記」より |
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51. 良泉寺 長野県上田市矢沢 |
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矢沢城の北の山裾にある良泉寺。矢沢氏の菩提寺として貴重な古文書が保存されている。 |
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写真中央が矢沢薩摩守頼綱の墓 |
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52. 林昌寺 群馬県吾妻郡中之条町 |
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平安時代、創建された天台宗の寺。戦国時代、荒廃するが1594年、矢沢頼綱によって再建された。河原町、長岡を経て現在地に移る。昌幸より六連銭の寺紋と改修の資金を与えられ、以後、信之・信吉・信政など沼田真田氏の保護の下に寺勢を伸ばした。 |
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53. 矢沢家跡 長野県長野市松代町 |
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矢沢氏は幸隆の弟、矢沢頼綱の活躍が有名であるが、その子、三十郎頼幸(頼康とも)も昌幸・信幸・幸村に仕え各地を転戦し武功著しい。 1585年、第一次上田合戦の折り、頼幸は前述の矢沢城を800の城兵で守り、依田氏1,500の軍勢を退けたという。その後、頼幸は人質として幸村が上杉景勝に仕えた時、越後春日山に供している。 以後、頼幸は真田家の家老となり重きをなす。矢沢家はその後も真田氏代々の家老として活躍し明治維新まで続く。 その後裔は今も松代に住み、数々の貴重な歴史的文書を伝えている。 |
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NHK大河ドラマ「真田太平記」より 矢沢家跡 |
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54. 平八石 群馬県沼田市沼田城址公園内 |
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沼田城址公園に残る伝説の石。沼田平八郎景義の首級を載せたという。平八郎は沼田城を築いた沼田氏12代顕泰の側室の子で摩利支天の再来とまでいわれた勇将であった。 1566年、顕泰は三男の朝憲に家督を譲り、側室とその子、平八郎を連れて沼田の北、川場村に隠居した。しかし側室とその兄、金子美濃守は平八郎を沼田城主にしようと野心を抱き、顕泰に朝憲殺害を働きかける。そして顕泰と平八郎は共謀して朝憲を殺してしまう。この報を受けた沼田勢は怒り、顕泰たちは追われ、会津へ逃げて行った。 その後、顕泰、側室は死に、沼田城は上杉から北条の手に移り、さらに武田の配下昌幸の占めるところとなっていた。その間に平八郎の叔父、金子美濃守は歴代の城主に仕え、昌幸にも要領良く取り入っていた。 1581年3月、平八郎は3,000人の旧臣や農民の支援を得て、ついに沼田城奪還ののろしをあげた。容易ならざる事態と悟った昌幸は金子美濃守を呼び、平八郎を討ち取れば土地1,000貫文を与える、という約状を渡し計略を授けた。これを受けた金子美濃守はさっそく平八郎のもとへ行き、甘言をもって平八郎を沼田城外、町田の観音堂におびきよせ謀殺してしまった。 昌幸はこの石の上にその平八郎の首級を載せて実検したと伝えられるが、14代続いた沼田氏が亡びたいきさつから、その祟りを恐れて城内にまつって伝えたものではないか?と思われる。 尚、金子美濃守はその後人々に嫌われ、惨めな晩年を送ったという。 |
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町田の観音堂 |
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55. 戸鹿野(とがの)八幡宮 群馬県沼田市戸鹿野町 |
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戸鹿野八幡宮は沼田城主代々の守護神であった。 沼田城主、沼田顕泰が1530年8月に後閑八幡宮を迎えて現在地に祀り、城の守護神とした。城主が苦戦した際に山鳩多数が敵陣上空に舞い、敵を混乱させて勝利をおさめた地ともいわれる。 1580年、昌幸が出陣に際して祈願して以来、代々武神として崇敬されたようで、戦いにのぞむ前にはいつもここで必勝祈願をしたという。 境内には信州伊那郡上戸村の石工による亀甲積みの石垣、大鳥居をはじめとした多くの石造物がある。 |
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56. 日向見薬師堂 群馬県吾妻郡中之条町四万温泉 |
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沼田攻略により吾妻郡一帯も昌幸支配の沼田所領地となった。この薬師堂は1598年、沼田初代城主、信幸の武運長久を祈願して建てられた。この建物は重要文化財に指定されている県内唯一の寺院建築であり、現存の寺院建築として県内最古のものである。 薬師堂の前の建物は「お籠堂」とよばれ、1614年に建てられた。湯治客が病気を治すため経を読んだり、断食、水ごりなどの荒行をするためこの堂に閉じこもった。 この薬師堂とお籠堂は温泉と結びついた薬師信迎を物語る建物として貴重視されている。 尚、幕末の蘭学者、高野長英は一時ここ吾妻地方に潜んでいた。 四万温泉に向かう途中の沢渡(さわたり)温泉には、高野長英の弟子であり、長英を匿った福田宗禎の湯宿兼医療所跡を記す石碑と説明板が建っている。 |
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高野長英奇宿跡 |
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57. 海野長門守幸光の墓 群馬県吾妻郡長野原町羽根尾 |
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吾妻から沼田にかけて独自な実権と基盤形成を着々と整えつつあった昌幸のもとに腹心から海野長門守・能登守兄弟に逆心の企てが明確に見られるようになってきたとの報が届く。 海野兄弟(羽尾氏)は1563年の長野原合戦では岩櫃城主、斉藤氏の大将として奮戦した。その後、真田方についた羽尾氏は岩櫃城攻略の功により幸隆から岩櫃城代に任ぜられた。 幸隆の死後は武田勝頼・昌幸からも岩櫃城及び吾妻郡代を一任されていた。 1581年11月、甲府在陣中にこの報告を受けた昌幸は叔父であり、海野能登守の子を養子としている矢沢頼綱に相談した。頼綱は兄弟が北条方へ味方することをおそれ早急の誅罰を進言する。これを受け昌幸は弟の信尹(のぶただ・信昌)を総大将として吾妻在陣諸侍をして兄弟を討伐させた。長門守は岩櫃城の館を包囲され居館に火を放って自刃、能登守は沼田で父子互いに刺し違えて壮絶な最期を遂げた。長門守75歳、能登守73歳であった。 長門守は旧領だった羽根尾城山麓のこの地に葬られた。 海野兄弟を失った羽根尾城は1583年、昌幸の命により草津の湯本氏が在城することとなったが、いつ頃廃城となったかは詳かではない。 海野兄弟は勇猛果敢な武将で真田にとっては強力な戦力であった。しかし、高齢で「奢り強き者」「高慢甚しき者」(古今沼田記より)となり、海野兄弟を同格とみる吾妻の諸侍から反感をかっていた。昌幸からするとこうした者の存在は吾妻地方での実権と基盤を伸展させていく上で有害無益なものとなっていた。 昌幸は腹心からの譏言を絶好のチャンスと捉え海野兄弟を討伐したと言えるのではないか? |
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58. 海野塚(海野能登守父子の墓) 群馬県沼田市岡谷町 |
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海野能登守輝幸は1581年当時、昌幸から沼田城二の丸の城代に任ぜられていた。昌幸の弟、信尹から襲われた能登守は「主家に二心無き証をたてん」と迦葉山を目指す途中、女坂といわれるこのダラダラとした坂道で追撃され、嫡男、幸貞と刺し違えて自刃した。父子はこの地に葬られ、海野塚と称された。 |
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