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「真田一族の歴史がよぉ〜くわかる本」 関東甲信越編

第8章 第一次上田合戦(神川合戦)
徳川家康との戦いと春日山城



96. 第一次上田合戦(神川合戦)その1  合戦までのプロセス

信長亡きあとの1582年後半になると、近畿を制圧した秀吉と、東海一帯に大勢力を持つ家康との対立が表面化し、家康は秀吉との対決を前に後顧の憂いを断つ意味で、北条との和睦が不可欠となってきた。そこで1582年10月の家康と北条氏直の和睦の条件(岩尾城の項)とは・・・。@家康の次女、督姫を氏直の妻とする。A氏直が占拠した佐久郡及び都留郡を家康に渡すかわりに、沼田領を含む上野一国の領有を氏直に認める。そして沼田領を支配していた昌幸には代替地として諏訪郡の一部を宛行う。という以上の2点であった。これに基き氏直は占領した甲信二郡を放棄、翌年には家康の娘を娶って徳川・北条同盟が成立する。
しかし、この時、まだAは実行されていなかった。1584年、小牧長久手の戦いで家康が秀吉に勝利し、両者が和睦すると北条は上記Aの履行を家康に迫ってきた。家康は昌幸に沼田領の明け渡しを求めたが、昌幸は代替地の約束も果たさない家康の命令を拒絶、今度は長年敵対していた上杉景勝に近づいていく。激怒した家康が上田攻撃の準備を始めると昌幸は当時19歳(17歳?)だった幸村と重臣、矢沢頼綱の嫡男、頼幸を人質として海津城に送り、上杉に異心無きことを誓った。さらに昌幸は景勝が秀吉と友好関係になっていたことを頼んで秀吉にも使者を送り庇護を請うた。景勝は今までのわだかまりはあったが、これを機会に懸案の信濃平定のため了承、昌幸にとっては心強い昔の同志、北信濃の諸将を彼の援軍に向かわせた。秀吉は前年の小牧長久手の戦いで家康に苦汁を飲まされていただけに、家康を牽制することも意図した上で昌幸の従属を喜び「委細承知」の返書を昌幸に送る。この頃には上田城もほぼ完成し、迎え撃つ堅固な居城と上杉景勝・豊臣秀吉という大きな後ろ盾を昌幸は持つことができた。昌幸はこれらの背景があったからこそ家康と存分に戦うことができたといえる。

  
                            上田城


97. 八重原の台地  長野県東御市八重原

天正13年(1585年)閏8月1日、上田城攻撃のため徳川7千余の軍勢は千曲川南崖の台地、八重原に本陣を構える。
八重原は御牧ヶ原に続く広大な台地で、上田城まではその距離12km足らず、その西の裾には丸子城がある。先手の大将は鳥居元世・平岩親吉・大久保七郎右衛門忠世ら、いずれも徳川家の重臣で、大久保忠世には26歳の末弟、大久保彦左衛門忠教が補佐していた。翌日の夜明け、先鋒する一軍がゆっくりと上田城をめざし千曲川を北へ渡る。第一次上田合戦(神川合戦)の始まりである。

  
NHK大河ドラマ「真田太平記」より                  
八重原の台地       


98. 第一次上田合戦(神川合戦)その2
  上田城及び信濃国分寺周辺

徳川軍7千は千曲川を渡り、神川、国分寺周辺に集結した。
迎え撃つ真田勢は2千余りに過ぎない。昌幸はこの軍勢を4隊に分けた。自らは上田城に留まり、嫡男、信幸は砥石城に向かわせ遊撃隊の拠点とし、矢沢頼幸(頼綱の嫡男)は上杉の援軍を得て矢沢城へ配置。残りの兵は城下や山野に伏せた。閏8月2日、戦端は開かれる。先ず信幸が手勢を率いて神川で小競り合いを演じ、押し出しては引きながら徳川軍を巧みに上田城へ誘い込んだ。真田勢は城下まで退くと手筈どおりそこかしこに姿を隠し伏兵となる。
徳川軍はそれが戦略とも知らず大手門に迫り、門を打ち破ろうとする。この時間帯、昌幸は平然として重臣と碁を囲んでいたという。徳川軍が大手門突入寸前に及ぶとようやく甲冑を着け、やぐらに立った。眼下では戦功を焦る鳥居・大久保らの主力兵が狭い二の丸を攻めあぐみ、門に取り付き、城壁をよじ登ってひしめいていた。昌幸はこの時とばかりに攻め太鼓を打ち鳴らし合図を送り、繋いでおいた縄を切らせ大木や大石を敵兵の頭上に落下させた。と同時に堀狭間から鉄砲や弓矢を一斉に撃ちかけた。
徳川軍はたちまち大混乱に陥った。勝機と見た昌幸は城門を開かせ総攻撃を命じる。真田勢の怒涛の勢いに、徳川兵は浮き足立ち逃げ惑うばかり。さらに昌幸は町家に火をかけ、千鳥掛の柵を設置し退路を阻む。こうして逃げ場を失った多くの徳川兵が討ち取られる。真田勢は追撃の手を緩めず、遊撃隊の信幸が襲い、そこへ山野に伏せておいた土民兵も加わり石礫を投げ降らせ攻めかかった。ようやく上田城の東方3kmばかりの神川まで敗走した徳川軍であったが、昌幸は敵が半ばこの川を渡るに及んで、上流に築いておいた堰を切って落し増水させ溺死させた。これが仕上げとなり、この日の戦いで徳川軍の犠牲者は350人、一説には1,300人にも上ったという。
対する真田勢は40人ほどであったという。同日、矢沢城でも矢沢頼幸が8百の守兵で依田勢1,500を退けている。
上田方面手ごわし、と見た徳川勢は翌3日には八重原の台地まで退陣し、軍勢を整えた。そして真田の属城となっていた丸子城攻撃にかかるが・・・。

  
                              神川


99. 丸子城跡  長野県上田市丸子
                                                          丸子城跡
内村川と依田川の合流点にある山城で、細長い尾根が続く丸子城。今、その先端は公園として整備されている。1583年、当時徳川方だった昌幸は、北条方だったこの城を攻め落し、城主、丸子三左衛門は屈服し、以後、真田家の麾下(きか)となっていた。そして2年後の1585年、徳川は丸子氏に使者を送り、味方するよう誘いをかけるが、丸子三左衛門は真田家との信頼関係を守り、城に立て籠もる。徳川軍は上田攻めの後、この丸子城を何度も攻めるが、上杉の援軍を得た昌幸は頑強な抵抗をみせ城は落ちない。家康は神川合戦の敗北を聞き、新手の援軍(井伊直政ら5千の兵)をさしむけ、総力で丸子城を攻めようとしていたが11月に入り、突如として全軍を本国に撤退させてしまう。この頃、家康の重臣、石川数正が脱走して秀吉のもとへ走るという事件が起きた。家康としては自家の機密が洩れてしまうという事態を前に、いつまでも真田に拘わっているわけにはいかなくなった。昌幸はこの神川合戦の前に城地2里四方の農民も一緒に籠城させ、その妻、子供たちにも石礫を投げさせたとある。真田にとってこの戦いは領内の農民子女まで合わせての総力戦であったわけで、徳川が大軍をもって再攻あれば、いかに昌幸とて再度徳川を撃破できたかどうかはいささか疑問である。
石川数正の出奔という思いもよらなかった事態が昌幸に幸運をもらたし、寡兵を以って徳川の大軍に大打撃を与えたこの大勝で、昌幸は真田の威名を天下に轟かせることができた。


100. 北条軍の沼田攻め
  群馬県沼田市西倉内町

上田攻めの徳川軍が一時佐久、諏訪に退陣した9月、真田陣営の手薄を衝くように北条氏直率いる大軍が、真田のもう一つの所領、沼田城に迫った。北条の沼田侵攻は前年にもあり、この期に北条が沼田攻めを敢行するであろうことは真田側でも予想していた。しかし、昌幸は上田から援軍を送れる状況にはない。沼田城代、矢沢頼綱を励まし、上杉景勝に支援を要請する。景勝はこれに応じ、先に人質として出仕させていた矢沢頼幸を越後から返し、援軍も追って派遣することを約束する。こうした上杉の支援と矢沢頼綱を中心とした沼田在陣諸将の懸命な防戦に合い、北条側は利あらず、とみて9月29日には小田原に帰陣する。
しかし、北条の沼田侵攻は執拗であり、翌1586年5月、またしても大軍をもって沼田攻略にかかってきた。この時は連日の大雨と洪水も手伝い、地の利を生かし防備術策を構じた矢沢方の勝利に終わり、またしても北条方は退陣せざるを得なかった。


101. 春日山城
  新潟県上越市中屋敷

上杉謙信の居城として名高い春日山城は別名「鉢ヶ峰城」ともいい、越後守護上杉氏が14世紀中頃、戦時のために築城した。
のち謙信の父、長尾為景と謙信が城を大々的に改築している。
春日山城は石垣の代わりに自然の起伏を活かした空堀、土塁などによって多くの郭を守っていた。そのため天守閣を持たず、周囲の山々に砦を築いて、より大きな城としての機能をもたせていた、城は謙信の死後、養子の景勝に、景勝の会津移封後は越前北庄城から入った堀秀治に引継がれた。
その後、堀氏が1607年、直江津港近くに福島城を新築して移ると春日山城は廃城となる。
上杉景勝は謙信の甥に当たる。謙信の死後起こった「御館の乱」後、謙信の後継者となり、1587年新発田氏を攻略、1589年佐渡を平定、1592年には秀吉の名代として朝鮮に渡っている。1598年、秀吉により越後55万石から会津120万石の大身に昇り、豊臣秀頼の5大老の一人となる。関ヶ原の戦いの時は会津に割拠して旧領越後や、出羽の併呑をもくろみ、石田三成の挙兵を産み、家康を迎え撃とうとするが、三成が敗れると家康に降伏。重臣、直江兼続の巧みな外交工作によりなんとか取り潰しは免れたが、米沢30万石に激削、移封された。
幸村は第一次上田合戦の折、この景勝の許へ人質として送られた。景勝は幸村を気に入り可愛いがったようであり、自分の近侍とし実戦経験を積ませ、屋代氏の旧領を与え、城将として抜擢もしている。幸村の春日山での暮らしは2年足らずであったが(幸村はこののち秀吉に出仕する)、この間に闘神、毘沙門を信仰していた上杉軍の麾下となり各地を転戦し、のちの自らの『最強伝説』を作る下地をこの時作ったといえる。
のち幸村が兄、信幸と別れ、石田・上杉軍についた理由はいくつか考えられるが、恩ある上杉景勝に刃を向けたくはなかったこともその一つの要因といえるのではないか?
しかし、その景勝も家康の命には逆らえず、大坂の陣では徳川軍として参戦、幸村ら大坂方と戦うことになる。
景勝は1623年、米沢城にて死去。享年69歳。

  


102. 林泉寺
  新潟県上越市中門前1丁目
                                                         惣門と楼門
上杉謙信の祖父、長尾能景が父、重景の菩提を弔うため1497年、春日山城下に創建した長尾氏の菩提寺。景勝の会津移封後に入った堀秀治は寺領224石を寄進する。その堀氏、高田城主松平氏、榊原氏の菩提寺でもある。謙信は7歳から14歳までの7年間、名僧、天室光育からここで禅の修業と文武の道を学んだ。敵である信玄に糸魚川の塩のルートを開け放したり、領土的野心で戦さをしたことは一度もなかったといわれる謙信。義を重んじ、教養高く、信仰心が深い武将、上杉謙信の素養は、この時、培われたといえる。
入口の林泉寺惣門は春日山城の搦手門を移築したものと伝えられ、往時を今に伝える唯一の建物。その奥の楼門(山門)は謙信生誕400年を記念して鎌倉期の様式を取り入れ、大正時代に再建された。
墓地には謙信や堀家三代の墓、川中島戦死者の供養塔などがある。

  




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103. 十念寺(浜善光寺)
  新潟県上越市五智2丁目

謙信が信濃善光寺の本尊を武田軍から守るために移した寺と伝えられ、「浜善光寺」として親しまれている。お堂には戒壇めぐりもある。


104. 御館(おたて)の乱跡
  新潟県上越市五智1丁目 

1578年3月13日、謙信は脳溢血で倒れ、人事不省のまま世を去ると、謙信の養子、上杉景勝と上杉景虎が家督相続をめぐって戦った。6千軒の町家、寺院が焼かれたというこの戦いを御館の乱という。
先に謙信から弾正少弼の官位を譲られていた景勝は、死の床で謙信が自分に跡目相続を遺言したと主張する。一方の景虎は北条氏康の子で、氏秀と称していたが、上杉・北条同盟の折に人質として謙信の養子に迎えられた。のち、同盟が破棄されても謙信はこの氏秀を実家に返さず手元に置き、自分の旧名「景虎」を与え可愛がった。景虎はこれを理由に家督相続を譲らない。両者は謙信の葬儀そっちのけで二派に分かれ、ついに景勝は春日山城本丸を占拠。これに対し景虎は前関東管領、上杉憲政を後ろ盾に二の丸に入ろうとしたが景勝軍に阻まれ退却、上杉憲政の館「御館」に走った。
この時期、武田勝頼は北条と同盟を結んでおり、当然、上杉景虎を支援するものと思われたが、勝頼としては景虎軍が勝って越後が北条の勢力下に入ることを危惧し、景勝側にまわり、景勝から上野国西部の割譲と黄金500両を受け取り、自分の妹を景勝の内室に入れて講和を成立させている。
これにより景勝は景虎攻撃に全力を挙げることができ、1579年3月17日、景虎の籠もる御館を総攻撃し、御館は落城、景虎は脱出して小田原へ逃亡の途中、立ち寄った鮫ヶ尾城で城主の謀反に遭い、3月24日、この城で自刃した。26歳。
景虎を助けた上杉憲政は景虎の長子、道満丸(9歳)を伴い、和議仲裁のため春日山城へ向かったが、途中、四ツ屋(上越市)で景勝の兵に斬り殺され、道満丸も自害した。
御館の規模はほぼ2町平方、内濠、外濠を構えた大きな館であったことが昭和39年〜40年にわたる発掘調査によって確認された。ここからは鉄砲の銃弾、武具、刀剣、陶磁器、人骨などが出土している。御館の跡は長い間、畑となり、その上、明治になって北陸線敷設の工事の際に表土を大きく削られたので、城址らしい形跡は全く見当たらない。現在は住宅地化し、その中の一郭に碑を留めるのみである。


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