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「真田一族の歴史がよぉ〜くわかる本」 関東甲信越編

第3章 幸隆・信綱父子、上野吾妻へ転戦
岩櫃城、箕輪城など攻略


36. 鳥居峠  長野県真田町と群馬県嬬恋村との境界

ここは昔、四阿山を揺拝するため大きな鳥居が建っていたことからこの名がついたという。
真田地方から吾妻地方へ抜ける最短の峠道で、真田氏の一統は頻繁に行き来したものと思われる。
上田市からこの峠を越え、沼田市を通って栃木県宇都宮へと至る全長350kmの街道は日本で最もドイツ的自然景観を有し、近代日本の黎明期にドイツ文化の影響を受けていることから「日本ロマンチック街道」と名付けられた。近くには草津温泉、軽井沢を望む風光明媚な幹線道路である。

  


37. 長野原合戦の地  群馬県吾妻郡長野原町

1563年5月、信玄は長野原城の守りを固めさせている。
当時、この地長野原は幸隆の舎弟、常田新六郎隆永が守っていた。同年9月、岩櫃城主、斉藤越前守憲広は、長野原城攻略に動く。斉藤氏は重臣であり長野原羽根尾城の城主、海野長門守幸光・能登守輝幸兄弟に500騎を、甥の斉藤弥三郎には200騎を与え、また白井城主の白井長尾氏にも援軍を請い、真田勢の常田氏を攻めた。
最大の激戦はこの諏訪明神の社前で展開され、多勢に無勢の常田氏は敗退した。岩櫃城攻防の前哨戦ともいえるこの戦いで幸隆は敗れることこととなったが、この敗北により幸隆は武力攻略の難しさを知る。そして幸隆は、この海野兄弟・斉藤弥三郎をまるめ込み、岩櫃城陥落に導いた。
その後、海野兄弟・斉藤弥三郎は真田の家臣となり本領を安堵される。海野長門守は岩櫃城代、能登守は沼田城代を勤め昌幸のもとで勢力を振るっていたが、のちに仲間の豪族たちからねたまれ、讒言により昌幸に討たれることとなる


  
                       長野原城跡


38. 岩櫃(いわびつ)城跡  群馬県吾妻郡東吾妻町原町

川中島合戦の後、信濃支配を安定させると信玄は上野国を支配下に入れるため行動を起こす。吾妻郡は古くから幸隆の祖とされる滋野一族が栄えていた地であり、その関係もあってか信玄は上州侵略の任務を幸隆に託した。
幸隆は先ず吾妻の要害岩櫃城の攻略に取りかった。
1563年、幸隆は上杉と結ぶ城主斉藤憲広が守る岩櫃城を2度にわたって攻めた。正攻法による武力攻略が難しいと知った幸隆は、砥石攻略と同様な内部切り崩し作戦を遂行。これが功を奏し「三国一の堅城」といわれた岩櫃城は陥落した。幸隆は信玄から吾妻の守将に任ぜられ、幸隆の死後は長男、信綱が岩櫃城城主となる。
その信綱戦死の後、三男、昌幸が相続し、昌幸は上田城を築城する以前、ここを本城としていた。
1582年、昌幸はこの城へ主である武田勝頼を待避させようとするが勝頼は自決し武田家は滅亡する。
その後、昌幸は上田城と沼田城を結ぶ城として戦略的重要性を高め、嫡男、信幸を配置している。
1600年、関ヶ原の戦いでは昌幸の叔父、矢沢頼綱が城主となり信幸方(徳川方)の城となっている。
1614年、信之は岩櫃城を破却し城下町を移転した。
写真は岩櫃山。岩櫃城はこの山の裏手中腹にある。


  

39. 嵩山(たけやま)城跡  群馬県吾妻郡中之条町
                                                          嵩山城跡
幸隆は岩櫃において吾妻の経営にあたりながら岩櫃城の北東4kmの地にある嵩山城にねらいを定めた。
この城には岩櫃旧城主、斉藤憲広の配下、池田佐渡守が憲広の子、虎丸を擁して立て籠もっていた。あとには越後に落ち延びていた憲広の嫡男、憲宗も上杉の援軍と共に入城してきたのでなかなか陥すことはできない。そこで幸隆はまたしても得意の内部切り崩し作戦を用い、守将、池田佐渡守の内応に成功する(この池田佐渡守はのちに真田家の重臣となる)。
籠城すること2年、ついに力尽きた斉藤一族は憲宗・虎丸以下自刃。婦女子、子供は岩山より飛び降りて自害したという。
1702年、嵩山合戦で戦死した人たちの霊を慰めるため百番観音が建立された。現在、中之条町ではこの嵩山周辺をふるさと公園として整備し、町の文化、経済の中心として発展を見守っている。 


40. 箕輪城跡  群馬県高崎市箕郷町西明屋字城山

幸隆を起用した信玄は岩櫃、嵩山を落した後、これらの城を布石とし、西上州最大の勢力を誇っていた箕輪城の長野業政攻略に着手する。幸隆にとって長野氏は、およそ20年前、海野平合戦で敗れ小県をおわれた時、頼って落ち延びた先である。皮肉にも恩を仇で返すこととなってしまった。
名将、長野業政は12人の娘を周辺の豪族のもとに嫁がせて同盟を結び、箕輪城を中心とする一大勢力を築き上げていた。信玄は1561年にその業政が病没し、弱冠14歳の業盛が相続したことを知ると直ちに上州に侵入し、箕輪城攻撃の準備を進めた。1563年までには長野氏の領域のほぼ半分を奪い、1565年には要衝倉賀野城を落した。そして1566年9月、1,500の城兵をもって防戦する業盛を武田軍2万は猛攻の末ついに討ち破り、名城箕輪城は落城した。業盛以下一族主従みな自刃し、悲惨な最期であったという。
以後箕輪城は武田の西上野支配の拠点となり、信玄は、この城の総攻撃の際、先陣を受け持たせた内藤昌豊を城代として入れた。その後、信長の時代には滝川一益が一時在城したが、信長の死後は北条氏邦が城主となり城を改修した。
1590年、小田原攻めの際には昌幸・信幸・幸村によって城は開城させられている。
北条氏滅亡後は家康が家臣の井伊直政を12万石でここに封し、関東西域領国化の基盤とし、城下町も整備させた。その後1598年、家康は直政に命じて城下を高崎に移す。これに伴い箕輪城は廃城となり、約一世紀にわたる歴史を閉じた。


  


41. 長野業盛の墓  群馬県高崎市井出町

長野業盛は戦国時代西上州の要であった箕輪城最後の城主であり、永禄9年(1566年)、武田信玄の攻撃を受け、討ち死にした。その遺骸は当地の僧、法如らによってここに葬られたと伝えられている。(群馬県教育委員会の説明文より)
この業盛の父、業政は、勇猛果敢な武将で、優れた戦術を用い、数回に及ぶ信玄の激しい攻撃にも少しも怯まなかったという。善政によって領民に尽くし、名城主として今も地方では長く語り継がれている。


42. 倉賀野城跡  長野県高崎市倉賀野町

中世、この辺りは上州8家の一つ、倉賀野三河守という者が束ねていたが、1546年の「河越夜戦」(北条氏の武蔵国支配確立を決定づけた戦い)で戦死してしまう。のち倉賀野党16騎といわれる宮原の庄の者たちが治め、1559年、信玄が上州に陣取っていた時、その中の一人、金井小源太秀景という者が一党の総代として信玄に仕え、倉賀野淡路守と改号させられたという。
この倉賀野城跡の約100m南、烏川下流には「倉賀野の河岸」があった。上州、信州、越後の三国と江戸とを結ぶ中継地として、米、特産品、生産必需品などが流通し、元禄の最盛期には舟問屋10軒、舟150艘、14の河岸組合が存在したという。
明治17年、高崎線の開通により、河岸としての使命を終える。
尚、幕末、江戸から知行地、上州権田村に向かった幕臣、小栗上野介の家財道具など数十品もこの河岸に引き上げられている。
後年、これら人目を引いた荷駄は、徳川埋蔵金伝説の論議を醸し出す発端ともなった。

  

43. 河(川)越夜戦の跡  埼玉県川越市志多町東明寺

北条早雲(伊勢新九郎長氏、宗瑞)を祖とする戦国大名、後北条氏。その三代氏康は初代早雲・二代氏綱の基盤を継承するとともに事実上、関東から上杉氏などの旧勢力を一掃し、覇権を一気に北条の許へ引き寄せた。そのきっかけとなった画期的な事件が「河越夜戦」である。
1537年以降、河越城は北条氏の手中にあった。しかし、この奪還に意を注ぐ上杉(扇谷おおぎやつ)朝定は関東管領上杉(山内)憲政や古河公方、足利晴氏と連合、また駿河の今川義元とも結んで北条氏康を牽制した。そして1545年10月には北条綱成(二代氏綱の養子)の守る河越城を8万騎といわれる大軍勢をもって攻囲した。一方、河越城に拠った北条綱成の兵はわずか3千騎に過ぎず、ひたすら本拠地、小田原からの援軍を待ち、籠城するほか手だてはなかった。
これに対し氏康は先ず、今川義元と和議を結んで後顧の憂いを絶つ。そして翌1546年4月20日の夜、わずか8千の兵でもって夜陰に紛れて両上杉氏・古河公方の連合軍を奇襲、これを撃破した。この戦いは結果、朝定は討死して扇谷上杉氏は滅亡。足利晴氏は古河に退き、また上杉憲政は上野国平井城(群馬県藤岡市)へ逃亡し、これ以後、関東の勢力図は北条氏を中心として急速に転換していくことになる。
戦いはここ東明寺寺領と境内を中心に激しい市街戦となったため別名「東明寺口合戦」とも言われている。
この夜の戦いで両上杉・古河連合軍は一万三千余の死者を出したと伝えられる。


44. ちょっと寄り道@ 小栗上野介について  群馬県高崎市権田村

1868年閏4月6日、小栗上野介主従4名は烏川、水沼河原のこの辺りにて斬首された。この河原に建つ顕彰慰霊碑には「偉人小栗上野介、罪なくして此所に斬らる」と彫られている。村の有志により昭和7年建立されたものだが、この碑文揮亳に当ってはもう一つの案があった。「幕末の偉人小栗上野介終焉地」というものであったが、議論の末、村民は小栗の非業の最期を悼み「罪なくして〜」を選んだという。
この当時になってもまだ薩長閥の力が警察の下部まで浸透していたのであろうか、碑が建立された後、建立責任者として村長は高崎警察署へ呼ばれた。「罪のない者が斬られたなどもっての外」と叱られ、なかなか許可を受けられなかったという。
小栗は権田村に隠棲、帰農し、村の若者を育成教育するため、居宅兼私学校を観音山と呼ばれた台地に建設し始めた。
これは小栗の死により完成ならなかったが、建築途中の建物は売られ、移築し、現在も前橋市総社町に都丸邸として現存している。


  
観音山小栗邸跡                      都丸邸


45. 生島足島(いくしまたるしま)神社  長野県上田市塩田

箕輪城攻略時期に前後して武田家中で内紛が勃発する。弱体化してゆく今川が織田・徳川に滅ぼされる前に駿河を占領しようと考える信玄と、その今川が衰退している今こそ同盟を強化し織田・徳川に対抗すべきだとする信玄の嫡男、義信が対立した。義信は今川義元の娘を妻としていたが、駿河が織田・徳川の手に落ちた時、武田家がどのような苦境に立たされるかが遂に理解できなかった。
これより先、川中島での意見衝突や、四男、勝頼の処遇をめぐって二人は不仲となっており、この駿河侵攻をめぐる意見の相違は二人の対立を決定的なものとした。
信玄は義信の側近を処刑し、義信も幽閉し、幽閉先で自害させた。この事件は家臣団の動揺を生み、その動揺を抑えるため、信玄は主な武将237人から信玄への忠誠と団結を誓う起請文を提出させ、この生島足島神社に奉納させた。生島足島神社にはこれらの起請文と川中島の戦いを前に信玄が必勝を祈願して奉納した願状等計94通の国重文が保存されており、境内に常設展示されている。武田滅亡後は真田も崇敬を厚くし、昌幸・信幸も神領をここに寄進している。



46. 白井城
  群馬県子持村

幸隆らによる戦果に勢いを得た信玄は、着々と上野侵攻の実を挙げていった。1572年には、かねてから武田方の攻略目標の一つであった白井城を攻撃した。白井城は先の関東管領上杉氏の重臣で謙信とも縁続きになる長尾憲景が守っていたが、幸隆らは苦もなくこれを攻略、またしても幸隆得意の調略によるものであった。この頃になると嫡男、信綱は一人前の武将として認められたようで信玄からの書状には幸隆と連名で宛てられたものが残っている。幸隆・信綱父子は上野の対上杉最前線において信玄から全幅の信頼を受け、重要な役割を果たすようになる。そして次なる攻撃目標は北上州の要衝沼田城となるはずであったが―。
白井城は1256年、上野国守護上杉氏の家臣、長尾氏(白井長尾氏)によって築城が始められた。利根川と吾妻川の合流点に北から突き出した台地の先端に築かれ、自然の要害を利用した平城で大城郭であった。
白井長尾氏は越後上杉氏、武田氏、滝川一益、北条氏と時代と共にその配下となって活躍したが、1590年小田原攻めの際、前田利家に攻められ滅亡した。城は家康が自らの譜代を封じたのち1624年廃城となる。
尚、城下の旧三国街道白井宿は古き景観を保ち、昔の街道の面影を残していることで近年有名となった。


  


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