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「真田一族の歴史がよぉ〜くわかる本」 関東甲信越編

第12章 第二次上田合戦
昌幸・幸村の秀忠軍迎撃戦


164. 小諸城跡  長野県小諸市古城

三成挙兵を知った家康は西上を決め、江戸城に帰陣した。この時家康に従った諸将の中には、浅野長政・福島正則・黒田長政・池田輝政など秀吉恩顧の大名が数多くいた。家康自身は東海道を、秀忠は東山道を西上する手筈を整え、先ず福島・池田等を先発隊として東海道を西上させた。家康としては先発隊のほとんどが秀吉恩顧の大名であったため、その動向に疑念を持ち、試すつもりであったが、先発隊は勇戦し、織田秀信(信長の嫡孫)の守る岐阜城を落し、合渡川や犬山の戦いに勝ち、石田三成の籠る大垣城に迫る勢いをみせた。こうした報を得て安心した家康は上杉への備えとして宇都宮に残留させていた秀忠を先ず出発させ、ついで自分も9月1日に江戸城を出て東海道を上っていった。これより先、徳川方に残った信幸は領国沼田に帰っていた。役目は会津の上杉と、信濃の父、昌幸に対する備えを厳にすることであったが、そこへ8月23日付の秀忠からの書状が届けられ、東山道を上る秀忠軍に加わるよう命じられる。翌24日、信幸は800余の兵を率いて沼田を出発、28日には秀忠軍と上州松井田で合流した。
信幸の兵を吸収した秀忠の軍はその数3万8千。榊原康政、大久保忠隣(ただちか)、本多正信らの譜代を主力に森忠政、仙石秀久らを従え、中山道を家康との合流地、美濃に向け西上すべく9月2日、小諸城に着陣した。
小諸城は武田信玄が村上氏の属城であったこの城を落し、1554年大築城工事を起こして信州攻略、関東進撃の前衛基地とした。武田家滅亡後は滝川一益が支配したが、本能寺の変後は徳川と北条が争い、徳川配下の依田信蕃がこの城を治める。その後、依田信蕃が岩尾城で戦死すると家康は信蕃の長男、康国を小諸城主としている。
秀忠が本陣を構えたこの頃は、仙石氏が入城しており、城の整備がされつつあった(のち仙石氏は信之に代って上田城に入る)。現在、小諸城跡は「懐古園」となり、島崎藤村の詩碑もあって多くの人々が訪れる。また近くには浅間山と小諸を愛した渥美清の「寅さん記念館」もある。

  




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165. 信濃国分寺  長野県上田市国分
                                                     NHK大河ドラマ「真田太平記」より
秀忠は、できたら上田は支障なく通過したかったのか?それとも父、家康から中山道を進軍することにより周辺諸国を制圧する任務を帯びていたのか?いずれかは分からない。ともかく小諸に到着した秀忠は9月2日、大久保忠隣、本多正信、そして真田信幸を上田城への軍使として派遣した。3人は城下の国分寺に入り、昌幸の許へ使者を送る。
彼らは国分寺本堂で対面。城明け渡しを迫る信幸ら徳川方を前に昌幸は「城の清掃をしてから開城したいので3日間の猶予をもらいたい」と懇願する。これに秀忠は歓迎し、さっそく昌幸を赦免し、使者を以って昌幸に伝えている。秀忠軍3万8千を上田城に釘づけにし、大坂表へ駆けつけぬ父、昌幸の狙いが手に取るように解る信幸であったと思われるが、味方の徳川重臣には何も言わない。そして2日経った9月4日、城を明け渡すどころか戦さの準備を整える昌幸に徳川方は再び使者を送ると「いったんは城を明け渡すつもりだったが、よくよく考え、潔く戦うことにした」とふざけた答えが返ってきた。
激怒した秀忠は昌幸の赦免を取消し、上田攻めの軍令を発する。そして本陣を上田城8kmのところにある染屋の台地に移す。
信濃国分寺は衰退した旧国分寺に代って平安時代後期に現在地へ移転したと伝えられる。境内には室町時代の建築といわれる重要文化財の三重塔があり、天台宗中部49薬師霊場第一番札所としても有名である。薬師如来を安置する本堂は、毎月8日に経を上げることにちなんで「八日堂」の名で親しまれている。
現在の本堂は1860年の竣工で昌幸と信幸が対面した当時のものではない。

  
三重塔                              本堂

166. 染屋の台地
  長野県上田市古里

1600年9月4日、城明け渡しの約束を破って籠城する昌幸に激怒した秀忠は、諸将に軍令を発し、上田城東方8kmのところにある染屋の台地に本陣を移す。
現在でも染屋町は『台地』というより『山』といった所。ここからは上田市街が一望できる。しかし、ここも今や住宅地化し、当時秀忠が陣を張った形跡や面影は全く見受けられない。

  
                          NHK大河ドラマ「真田太平記」より

167. 砥石城(伊勢山城)攻撃
  長野県上田市上野・住吉
                                                        砥石城遠景
9月5日、秀忠は先ず砥石城を攻めた。幸村が7百の兵を率いて待機する砥石城内米山曲輪の伊勢山城に、秀忠軍の先鋒として現れたのは15年前、この城から出撃し、徳川軍を撃ち破った兄、信幸であった。幸村は兄弟の戦いを避け、この城を捨て上田城に引き上げる。
秀忠は無防備の砥石城を乗っ取り、ここにその信幸を配置する。


168. 第二次上田合戦(秀忠軍迎撃戦)  上田城及び信濃国分寺周辺

9月6日、秀忠は上田城の東部に軍を進め、収穫期にあった稲穂の刈田を命じた。真田の領民にとっては実った稲穂を焼かれてはたまったものではない。城から少勢が出て、刈田の兵と小競り合いが始まった。この槍合わせが発端となり、第二次上田合戦と呼ばれた戦いは始まる。秀忠軍は3万8千、対する昌幸・幸村軍は総勢わずか2千5百の兵力だが、領民に対し「この度の働きについては、敵の首一つに知行百石宛与うべし」と士気を鼓舞する。
戦闘はあたかも15年前の第一次上田合戦と同じような経過を辿った。
武将の指揮もない秀忠軍に比べ、真田軍は昌幸の命じるまま城から打って出ては白兵戦を交え、押しては深追いせず退いた。
戦法はその繰り返しで、城へと退却する真田勢に大久保忠隣、酒井家次などの将兵が誘われ、命令も待たず大勢が争って上田城の大手門へ打ちかかった。この時、狭間から弓矢や鉄砲の一斉射撃を浴びせ、怯んだところを幸村率いる城兵が一気に襲いかかった。秀忠軍は総崩れとなり城外へ逃げ延びる。

  
                      上田城

169. 虚空蔵山(伊勢崎城跡)
  長野県上田市
                                                            虚空蔵山
昌幸・幸村は預め、砥石城の南にある小高い山、虚空蔵山(通称かいこ山)に伏兵を隠し、その手前を流れる神川の水を堰止めておいた。そして総崩れとなって秀忠軍が城外に逃げ延びてくると、虚空蔵山の兵が側面から突き、徳川軍は大混乱に陥いる。さらに神川を渡って落ちようとした兵も堰を切られて増水した流れに巻き込まれ、多くの死傷者を出した。
またしても徳川軍は第一次上田合戦に似た昌幸の奇策にはまり大敗北を喫した。9月7日、秀忠は本陣を染谷の台地から小諸に戻す。奇妙なことに上田付近での合戦は神川とその周辺が常に激しい戦闘の場となっている。1541年の海野平の合戦、1585年の第一次上田合戦は共に「神川合戦」とも呼ばれる。そしてこの第二次上田合戦も神川や国分寺周辺が主戦場となっていた。地元の地理を知りつくした昌幸と幸村は、最も得意な場所と計略を用いて徳川軍を2度も打ち破り、真田の名を不朽のものとした。のちに幸村が大坂城へ厚遇をもって招かれるのも、こうした武勇が広く知られ、高く評価されたから、といえる。

  
神川                            主戦場付近


170. 小諸城への退陣
  長野県小諸市古城
                                                       小諸城、秀忠本陣跡の碑
9月7日、秀忠は小諸まで退いた。徳川軍としては先の第一次上田合戦と合わせ、二度までも上田攻めに失敗したため、徳川家の権威と面目に関わる問題として信濃に留まっていたと思われるが、家康の西上催促により9月11日、秀忠は上田の抑えとして、仙石秀久・森忠政・石川康長らの信州勢を置いて木曽路に向け進発した。

                              

171. 大門峠
  長野県上田市長和町

上田に籠城する真田勢を攻め倦み、思わぬ時間を費やした秀忠軍は9月11日、小諸を発し木曽へ向かう。通常は丸子から長久保を経、和田峠を越えて諏訪に出る中山道が順路だが、この道には真田の砦が各所にあり、危険と見て大門峠を越える行程を選ぶ。
山道、崖道の行軍に兵士は谷に落ち、秀忠も木の枝に兜を引きかけられ馬から落ちてしまう有様で難渋を極めた。
関ヶ原の主決戦が終わった9月15日の夜半、秀忠軍3万8千は、ようやく関ヶ原の遥か手前、妻籠宿(南木曽町)に辿り着いていた。
秀忠は家康より先に出立し、上田で何もできなかったうえに大事な決戦にも間に合わなかった。およそ8日間、上田に釘付けされたことが響いたわけだが、家康は戦後、秀忠に面会さえ許さなかったほど激怒したという。
家康は天下分け目の合戦で秀忠軍不在のまま、外様大名の力で西軍に勝利することとなる。よって徳川幕府は外様大名に一目置かねばならなくなり、幕府の中で外様大名の格式は意外に高く、第二次上田合戦は幕末まで続く大名の格式にも影響していた、という説をとる学者もいる。
秀忠の大軍を上田で足止めにした合戦も、関ヶ原で西軍が敗れたため昌幸は敗将となった。東軍に属していた信幸と妻、小松姫の取りなしで死罪は免れたものの、昌幸と幸村は高野山九度山蟄居を余儀なくされてしまう。
写真は大門峠と中山道の分岐点。左、大門峠。右が中山道。

関西編へ続く

  
                            中山道和田宿


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